20世紀の音楽 2

シェーンベルクを忘れていたのだった。ベルク、ウェーベルンも。


で、何のリストのようなものを、書いてるのか。
こんなものを書く私は何者なのだろう。
好きな作曲家について書いて、そちらを掘り下げればいいものを。あるいはちょっといい趣味とは思えないが、人気があるけれどあまり好きではない作曲家のことをあげつらってみたらいいものの、そういうわけでもない。そういう悪い趣味は私にもあるのだが。


音楽史のようなもの、時代の流れのなかで創造性の飛躍がある。
古典として奉り上げられることに問題があるのではないか、クラシック、なんて。
バッハの、幾つもの旋律線が交差するスリリングな要素、を否定した、わけではなかったのか、ルソーは。ラモーとの論争があったらしいということくらいを知っているだけだが、その後、音楽は単純化したように思える。が、ハイドンの「驚愕」の印象が強いだけで、実際は違うのだろうか。
規範はソナタ形式、と、いってもよく分からないのだけれど、反復され、回帰する形式が様式化、形式化したように思うのだけれど・・・。不安定から安定へ向かう様式。予定調和。あいまいな部分の減少。
ベートーヴェンが発展させた作曲の方法、細かい音の動きを組み立て、大きな構造をつくるようなやり方、執拗な反復、むしろロマン派になるとこのしつこさはうすれ、再び旋律線がよみがえってくるように思えるものの、音の動きに不安定さがうまれる、と、言っていいのかな。予定調和が薄れる。
あとは民族の旋律、そもそも、予定調和と関係がないようで、しかし、古典の音に慣れた耳にも終わりに向かう力は感じる。強引に思えるところもあるが、はたして彼らのつきあってきた人生の運命というものは、ベートーヴェンが人生の中で感じたドラマチックなストーリーのような、意味ありげなものではなかったのかも知れない。
変わる社会、新しい自由な生き方、それにふさわしい自由な表現、しかし、貧しいものたちには関わりがなかったことかもしれない。


あとは、戦争だ。欧州でひろがった大戦の前にも、市民戦争はあった。それらが、それ以前の戦争に比してすでにより不条理な、過酷なものになっていったのに、その傾向は極限まですすんだ。それはどうしてだろう。
戦争の合理性は、貧しいものたちとは関係なく保障される封建領主たちの営みとなっていたところに、貧しいものたちにも戦争に参加する権利が与えられる気がしたとか・・・。争いの生き死にに巻き込まれないにしても、その結果は貧しいものたちにふりかかっていた。自らのあずかり知らぬところで決められていた運命。よい領主様ならいいものの、そうでなければ死んだふりをして生きることになる。そうではない生き方の気配。とは、後からとってつけた言葉で、当時の人々がどのような言葉で考えていたかはわからないが。
市民は戦争に加わることに昂揚し、生活を、運命を自分たちの手でつかむために進んで戦いに赴いたのだろう。それは、そういう発想は現在も日本などで自覚されることなく本能的に存在し続けているのではないか。命をかけている人たちは、命をかけない卑怯者は自らの前にひれ伏すべきだと思うだろう。
命をかけるつもりがあるような気分になっているだけでも、そうではない人の生殺与奪を左右する権利を得たかのように思うかも知れない。


楽家も、戦場に赴いたり、戦意を昂揚させたり、英雄に失望したり、戦地で没したり、してきたようだが、20世紀にいたって、事情が変わった。ホロコースト大量破壊兵器、極限状態の戦場、その規模のとんでもない拡大。


こんなこと、私が生まれるずっと以前のこと、思い起こしてもしょうがない、ある種偽善のようなことだろうか。
私の父母が生まれたのは、戦争中になるのだろうか。それより少し前だろうか。
おや、話しがとてつもなくそれたのだろうか。




戦後の作曲家として、ブーレーズは、よくわからないのでとりあえずいいや。ケージとクセナキスには興味があった。
ケージはキノコのような音楽をつくっていた、と、本人が考えていたようでもある。クセナキスは雲のような音楽をつくったと、読んだことがあったかも知れないが、泣く女のような音楽をつくろうとはしなかったのかも知れない。
社会の既成概念に従わなかったアメリカ人と、反体制運動に参加したギリシャ人。
アンチ・ヒューマニズムのようでもある。人間らしい音楽をつくることしか考えていなかったであろう(特にルソー以降?)西洋の人たちにとっても、それぞれの生活、文化の中に各々独特の音楽の在り方を守ってきたところに西洋から人文的な音楽を採り入れはじめたそれ以外の人たちにとっても、なじみのない音楽。


人間であるから、音楽の暗さや明るさに心を動かされる。が、自然の営みに心を動かされるのも人間だ。言葉や情緒は単純で、強引だが、自然は多様でしなやかだ。ケージやクセナキスの音楽を聴くときに、風の音や雷の音、あるいは少しずつ変化する自然現象のおおきなリズムを思い浮かべること、などが出来る。シェークスピアの話は面白いものの、いつも生か死か、そんなことばかりを問題にしていられない。
そんなこと考えてばかりいるから戦争なんかどうしてもやらなきゃいけないと思い込んでしまうんじゃないか、人間失格とか、曽根崎心中とか、走れメロスとか・・・。


とはいえ、あまり熱心な20世紀音楽のリスナーだったわけではなく、ある時からあとは、高橋悠治のガイドで音楽を聴く部分ばかりが大きくなって、反省もしていた。それで、泣く女や悩む男の音楽も聴いてきたわけさ・・・本当かなあ。
案外、ちょっとそのクソ人間じみた音楽の感情らしきものを横に置いてみると、その音の運動に自然の原理のようなものがどうしても出てきてしまうような感慨にひたったような気もする。
まあいいや。再び、久しぶりに高橋悠治のガイドに戻って、グバイドゥーリナやホセ・マセダの音楽を聴く。グバイドゥーリナはチェロの楽譜を持っていたので、音符をなぞってみた。
余計な説明だなあ。


ホセ・マセダには、以前に聞いたときには感じなかった広い世界が開けていくような感じを覚えた。自然と人間の対立みたいな事を書いてしまったが、この音楽は普通に自然の中で生きている。別に人を忘れている訳ではなく、何か水をたたえた原っぱのなかで、人々がふつうに、環境にとけ込むように居る、感じ。歩いている。笑っている人もいる。虫の声も聞こえる。日が昇るし、夜が来る。と、いうのは、なんとなく曲を聞いて覚えた感慨から思い浮かんだだけの言葉。
グバイドゥーリナのバヤン(アコーディオンのような楽器)の音には息づかいのようなものがある。風のようでもある。リズムは不定に近い。チェロも、動いては、止まる。私が楽譜で触れた新しい音楽には、武満や、高橋悠治らのものもあるが、チェロ一本が、逡巡しては動き、そして止まる、ここまで路傍の枯れ草のように貧しい音楽は、なかなかなかった。


そういえば、私も路傍の枯れ草のようだ、と思う。

グバイドゥーリナ作品集

グバイドゥーリナ作品集