21世紀の音楽

酒に酔ったり、誰かの文章につられたりしながら、とても論文などにはならない、論旨がはっきりしないどころか言葉のつながりがおかしい部分がここかしこに見られるような文章を書いている(ここまで大丈夫かな)。思いつきに過ぎない、はっきりとしていないことをついつい書いてしまった部分も多いはずだ。


20世紀の音楽のことを書こうとして昔の音楽、結局は西洋音楽の流れについて自分の連想を書いた。何かおかしな連想ばかりだ。その背景に、私の心の奥の、みんな自分が何をやっているかわかっていないんじゃないか、というような気持ちがあるようだ。
音楽というものは多様で、しかしそのうちのごく一部のタイプのものと、そのバリエーションばかりが聴かれたり、演奏されたりしているという気がしている。なぜそんなにこんな様式にとらわれてしまうのか、とらわれてしまったのか、こんなにまで世界を席巻するほどに、たった百年ちょっとの間に。
そんなことにやっきにならなくてもいい気もするのだけれど、音楽というものは、何か気になる。音楽が社会的であるということ、美術が音楽にくらべても教育の場面で創造性を強調される、と私は9/19にメモしたけれど、誰が書いたのだったか。呉智英だったかな。音楽がそう言うものだから、気になるのか。
とらわれているといっても、子どもの頃から、そんな音楽ばかりしか聞いてこなかったし、歌ってこなかったのだ。
私が小学生の時に、作曲の授業が何故か一時間だけあったのを覚えている。なにかすごいことをしているような気になって、でも、何をしていいのか分からない。できたメロディ(?)は、「沖縄の音楽みたいだな」か、あるいは中国の、だったかもしれないが、それはうまく作れていないことを表す言葉として聞こえたのだけれど、そんなふうに先生にいわれたはずだ。指導は、ドレミの音階について何か話された後だったかな。別に、良くない先生だったとは思わない。いずれにしても、カデンツらしき感じがなかった気がする。それがうまくいかないので、自分でも良くない気がしていたのだが、何か思いがけない展開をつくりたいというか、そんな衝動があったような気もする、が、それは後からそんな気がしてきているだけかも知れない。小学4年生の時だ。
話しは戻る。そんな音楽ばかりしか聞いてこなかった、というのは間違いで、私は子守歌や童歌として日本の庶民の音楽の構造に親しんでもいたのだ。ただし、母は西洋の音楽が好きで、「菩提樹」なんていう歌があることを、子どもの頃から知っていた。モーツァルトブラームスの子守歌も知っていた。
今2,3歳の私の甥っ子、姪っ子はそれら全てと親しむことはないかもしれないが・・・。
音楽の授業、というともう一つ思い出すのは、起立、礼、着席、のときの三つの和音。極端に言えば、機能的和声というのは、端的に言うとああいうものだと思う。


音楽のごく一部のタイプとは、機能的和声のはたらきが明確なもの(by私・・・?)。
と、いってもあからさまにはっきりとしているわけではないが、古典派の時代、ハイドンに最もわかりやすく出ているような気がしている。あとは、長、短音階というものが、7つの7音音階(モード)のうちの2種に過ぎないこと、その7つも、もとは上行と下行で違ったり・・・何かしら明確な正確を持っているものとして長、短音階のふたつが歴史的に選択されたようであり、それはルネッサンスあたりのことだったのだろうか。いずれにしろ、古典期に、ある種の規範、基準、基本として確立(?うーん・・・)され、だんだんとみんなの頭の中に、ぼんやりと巣くってしまっているように思える。


そのバリエーション、これは2種に分かれる。
たとえば、ベートーヴェンシューマンブラームスの流れ、ワーグナーが現れ、あるいはそれらの先にシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンがいると考えられるのか、また、ドビュッシーなんていう人は・・・。
ストラヴィンスキーバルトーク、彼らは民族の伝統的(?)音楽を利用して西洋音楽の「拡大」を計ろうとしたというようなことでは、ないとしよう。特にバルトークの音階から受ける力のようなもの、ベートーヴェン、またドビュッシーの流れを無視できないかも知れないにしろ、あるいはだからこそ創造的だったのか。すでにドビュッシームソルグスキーを意識していたらしいということは、何か気になる。バルトークに至っては、もはや古典派のバリエーションとは言い難く、むしろ12音技法の方がその傾向が強いのではないか、その力学を解体する際にどうしてもその重力軸にそってしまうような感じで。
しかし、バルトークのみならず、これらすべて、古典派のバリエーションというのはおかしい。
シェーンベルクまで、ウイーンの人ばかり。そんなとある国のとある地方の動きで、バルトークもリストなどを通して影響を受けていたといえ、他も同様であったにしても、その土地土地の音楽があった。もともとウイーンすらローマの影響があっただろうし、ルソーの論争はフランス。また、イギリスの音楽の好みも、というように互いに影響を与えあっていたにしても・・・。
いわゆるクラシック世界のコンポジションが古典派を無視できなくなっていただろうとは思うが、影響はある意味限定的なのかも知れない。


もうひとつのバリエーションは、ポピュラー音楽というもの。
こちらのほうが明確に機能的和声を教科書のようにしてつくられているのではないか。和声の進行を基本に置いて旋律もひねりだされ、そういうものを骨格として組み立てられている。教科書を見なくたって、そんなものとしてある。コードネームが、歌詞に付いていて、それを見ながら、記憶している旋律を歌い、あわせて演奏が出来る。
あとは、例えばマーチ。黒船が日本に来たときに音楽も持ってきて、それにも日本人は驚いたというが、西洋化した軍隊が行進曲を・・・そういえば、北朝鮮で足をずいぶん揚げて行進する様子が放送されているけれど、どんな音楽が流れているのだろう・・・。
これらは正しくは機能的和声の発展的利用ではなく、こんなものたちがあるためにクラシック古典派の価値を貶められても困る、ということになるかもしれない。機能的和声、というより、長、短音階なのかな。もともとそんな7音音階を使っていた地域は少ないのに、だからあまり7音は使っていないのだけれど、5音だとしても、ちょっともとからあった5つの音とは違ったり、するらしい。たとえば、古賀政男さんの曲とかそうらしい。小泉文夫さんが書いていた。
古賀政男バルトーク、私はバルトークの方が好きだけれど、それに深い意味があるのかな。マンドリンを弾いて、その流れで大栗裕さんの曲なんかも弾いて、彼は、浪速のバルトーク、なんて言われたらしく、そんなせいで、私が入ったのが明治大学マンドリンクラブではなかったために、古賀ではなくバルトークが好きなのかも知れない。いや、そんな単純じゃあないけれど。
文化って、なんなんだ。


恐ろしいことに、国際的言語になってしまったのだな。英語なんか以上に、西洋の音楽といわれるようなものが。
音楽のルーツ、歌と踊りと労働、労働に含めていいのか分からないが、儀式。儀式には踊りがあることもあるか、労働の時には歌をうたうのか、あれ、変だな。あと、行進の時の音楽、軍隊、トルコ行進曲
歌と言っても、詩、観念の世界だ。韻律がはっきりしているものもあれば、そうではないものもあり、そうでなければ拍子ははっきりしない。
5、7、7、と言っても、6、8、8かもしれず、8、8、8、8、かもしれない。前に2拍、間に1拍ずつ、後に1拍、さらに8拍余韻を聞く。余談か。
行進は2拍子だ。踊りには3拍子もある。
日本の、雅楽とか、むかし貴族が弾いた琵琶などは詩に近いのかな。ルーツはイラン、ペルシャあたりか。それははっきりとした反復の多い西洋のものとは違ったのか。詩が関係あるような気もするし、儀式のような気もする。儀式は芸術とはと違うけれど、生活から遠い点では同じか。
日本の民謡とかは、なんなのだろう。追分、あの複雑な様式? あと、祭りとは何だ。私の良く知らない世界だ。近くてもいいはずなのに。


思えば・・・もしかしたらルソーは分かりやすいものをよしとして、それは市民社会が始まる契機とも関係していたのか、貴族のためではなく、市民のための明快な音楽が古典派か。ルソー作とされる童謡があった。あるいは、民謡も採り入れただろうか。啓蒙家はそれを意図はしなかっただろうか。
バッハは熱心なプロテスタントの信者(?)だったようでもある。宗教改革者として名高いルターは、たくさんの賛美歌をつくったはずだ。バッハもそれをもとにして作曲した。




いちおう21世紀のことを書こうとしてみると、クセナキスやマセダのようなほどのことは、あまりこれからないかもしれない、などと思う。インドや中国では、何か起こっているのかも知れないが、今のところは、私にはあまり興味がない。知らないだけかも知れないが。
マニエリスムの時代が来たのだろうか。
ポピュラー音楽も好きだ。ジョビンやピアソラ、ある意味西洋音楽の歴史をしっかり受け継いでいる存在であり、むしろそのほうが自由で、束縛されていないような気もするが、南米とは・・・。
今は、ヒップホップとか、レゲエとかいうものが、一時期流行したロックを少し押しのけて、場所を占めているようだけれど、面白そうでもあり、でもさほど関心が強いわけでもない。
ジャズは、長、短音階の音楽から最も遠い種類のポピュラー音楽へと、変化していった種類の音楽だ。それでも、一時期よりは都会的な、洗練されたものになっているのか。あるいは、前衛的な流れは聞きやすいものとは別として存在しているのか。




マンドリン合奏なんて、狭い世界の、さらに片隅で楽器を弾いているだけでこんなことを考えるのは時間の無駄か。
こうして、私の人生は、無為に過ぎていく。
こんなものを書いている間に、バルトークの楽譜の打ち込みがひとつ完成したかなあ。