私は誰だ 10

さっきからいくつか考えたことがある。
このようなことを考えることに時間を使う、ということがまずおかしい、というようなこと。しかしそれは、社会がこんな状況だから、というようなことでもあるかもしれないこと。しかし、そう書いたときに、そんな社会なのにこんなことをしている私がおかしい、とも、こんなことがなかなかできないような社会がおかしい、とも、どちらともとれる、か。


成長するということ、それがわからないと思った。それはなぜかというと・・・あれ、なんだったかな。忘れた。
年齢によって、さらに人によって違うのだろうけれど、成長の意味が変わる、のか。成長と老化を考えるというのではなく、もっと質的な違い。もちろん器質的な成長と老化はある。それは量的な変化を伴うだろうか。
海馬、前頭葉といったワーキング・メモリと中央演算装置のような機能の進歩と退歩・・・しかし、そういう機能の向上や低下の程度すら左右する、たとえばモチベーションのようなこと。そのモチベーションを保ち続けるような智恵。個々人が見いだすしかないにしろ、そのヒントとなるものは歴史に隠されていて、コミニュケーションを通じて伝えられていく。情報が伝わるときには相互のやりとりが必ず必要だというようなこと、その、「伝統」、「伝承」、なにか違うが似たようなこと。
生き方の智恵。出会いを通して伝えられる。しかしそのような機会はあるのか、かつてあったのか。
あと、社会として進展することと個々人の歩調が、深く関係を持てること。
いや、そんなことでもなく・・・。


自信を持って何かを言い切ることが難しいと感じている。
それぞれ信念のようなものはあるにしろ、それを尊重はするが同意はほぼしない、ということを考えた。
人の言うことを受け入れるべきではないのではないか。ほとんどの人の言うことは、相手にするべきではないのではないか。
そんなことはないか。
いやでも、人の言葉に従って良くない結果が出た場合は、誰かの言葉を聞いたことが後悔を倍加させる・・・。
「上司は思いつきでものを言う」というような本があったはずだ。私は読んでいないが、何か相手より強い立場にある人・・・では収まらないな、何かの契約的な関係、それは制度的であるかどうかよりも慣習的にヒエラルキーが存在すべきだという・・・立場の違いから生じる・・・責任を恣意的に相手にお仕着せ、それが当然であるかのごとく、ふるまう。相手がそれを履行するのはほぼ不可能であり、しかもそもそも自分がそれをじゃましているために困難さがましてそうなっていても、それに異議を唱えるとさらに難題を増やす、おかしなふるまい・・・私がそんなことを呼び込んでいるのか。あるいは、彼はそんなことをされつづけ、それを誰かにも対しても行わずにいられないのだろうか。
あるいは、私が、まるで禅問答のように解かねばならない問題のこたえが簡単に出ないと駄々をこねる子どものようなものなのか、であるとして、そうではない人はどこにいるのか・・・どこにでもいるようだけれけど、案外そうではなくただ我慢しているようなひとたちが多いような・・・あとは、人に我慢をさせることを気にしない人たち。
あれ、何を書きたかったのか。


数年間の間に嫌な思いをしたことが私の行動をかなり左右している。嫌な思いをした原因は私にもある。何かを見通せなかったこと。残念ながらそれが何かを自覚できていない、今も私は。
嫌な思いをさせられたことを誰かに対して繰り返す、記憶してしまっていることの反映、そのことで苦しみが倍加し・・・。ということを、私もやってしまってはいないか。
嫌な記憶は反復してしまうというようなこと。なぜか苦しい記憶を、それが苦しいほど呼び覚ましてしまうというようなこと。それが周囲に理解されにくいというようなこと。わかってもらえないと嘆いているのではない、一般的な困難としておこりやすいということ。ありがちなすれちがいを克服するとこは難しいのか。
答えはひとつではない。それがひとつだと思っている人が死を呼ぶ。そのひとに、あるいはそのひとに関わるひとに。死、なんて、大げさな。
たといひとつの答えだろうと、それを扱う人によって全く違う言葉で表現されることがある。だから、言葉をあわないことを気にすると、かえってちがう答えにつながるということになるかもしれない。
あれれ、何を書いているのだろう。


なにかいくつかのそれなりによくできた考えを思いついたような気がしたのだけれど、とにかくすぐ忘れる。