私は誰だ 12 言葉や論理

もちろん私が何を考えているかなんて、どうだっていいのだ。
そうか?


どこでも対立が多く、その多くはくだらないと考えられる。結局は利己的な主張を合理化しようとしているだけだ。あるいは利己的ですらない。
国家というような単位として利益を追求すべきだというようなことが至上命題のように語られる、国益とは。地下資源のより多くの確保、とか。より大きな単位で考えることができない。外国人は、または違う民族の人は、同じ人間ではないかのようだ。または逆に、利己的だというところだけは自分と同様だと考える。そうでなければ、利用することができると考える。
自由(資本)主義経済というものがあるようであり、私有財産制というものがあるようであり、社会主義共産主義はそうではないらしいが、共産主義だったはずのソ連が崩壊してみたところに巨大な貧富の格差が出現しているということは、何があったと考えられるのだろう。中国共産党というものはなんなのか、中央集権の方便ではないか。
日本がついこの間まで世界第二の経済大国だったということは、どういうことなのだろう。その座を中国にあけわたしたらしいが、ほぼ同じくらいのGDP(とかいうこと)を、1/10の人口で実現してきたということは、誇るべき事でもあるだろうが、本当はなんなのだろう。
人間というものは、いったいなんなのか。
地球単位、人類単位がかなり重要な枠組みであろうはずが、それ以上に国家単位に思考が規定されるということは、人類や各個人にとって合理的なことなのだろうか。あるいは何か明確な外側を想定してある大きな単位で区切ることが思考のスプリングボードとして必要なのだろうか。
しかしまた地球単位で考えるということが可能か、あるいはのぞましいかと言えば、いわゆるグローバリズムというものがそれにあたるとすれば、おぞましいことでもあるかもしれない。
中国という国などからはアフリカに行って自由に経済活動を行っているようでもあるが、アメリカ合衆国がイギリスとともに南北アメリカ大陸やオセアニアで、ずっとやってきて、今もやっていることは・・・。その前にスペインやポルトガルが何をしてきたか、とか。アフリカやインドや中国でかつてイギリスが、アフリカや東南アジアで、フランスが、ほかにも、どこかが。そしてそれから独立したというような歴史。いまのグローバリズムとかつての帝国主義をなぜかいっしょに考えてしまった。
各地に固有な文化や民族性、それらと政治と切り離されるわけでもなく、商習慣もそうであるはずだが、グローバル・ルールに従わなければならない、かのような、あるいは一時的にでも国際的な商取引によって利益を得られるというような錯覚を起こさせるような取引の果ての豊かな国と貧しい国。胴元が損をしないようにしなくては、という問題なのか。損をしないという程度にとどめられなかったのか。
各地に固有な文化や民族性、それを最大限尊重することで硬直化したグローバルな社会を、健全化する、そんなモデルを考えているひとはいただろうけれど、それがどういう事か考えることのできる知性も、私にはなく、私に残されている時間も、もう残り少ないかなあ。


などということを考えているなどという、言い訳。


あるいは芸術という言葉でとらえられることが多い事々、もうそんな芸術なんて言葉はあまり適当じゃないよ、とよく言われるものの、そんなもの、音楽とか美術とか、そんなことが・・・そんな形式的なものにとらわれていない自由な表現に可能性があるとか、あるいはそうでなければ可能性がないとか言うが、おおまかにそれらをひっくるめて、かつては思考を桎梏にとらえさせていたとすら思えることもふくめたそんなもの、が、上で考えていた話題とは遠く離れている感じ、実際に結びつくことは、少ないあの話題とこの話題、もちろん強引に結びつけてはいけないだろうがある時あたりまえのように一つの話になってしまうこと、それを今の日本の片隅に生きているだけの人間(私)がまねをすることにはほとんど意味がないかもしれないが、そんなことがあり得るところに出会うこと、出会うのも無理としても、そんなことが存在しうるということだけは、確信として持っていること、しかし安易に結びつける表現を戒め続けること・・・。


もちろん、個人というものは決定的で、それを出発点にするというのはしょうがない。
小さな集団、営利企業とか各種団体、任意、公益、いろいろ。美術をやっていて少しはゆるやかな団体に所属し、音楽をやってはもう少し束縛のきつい集団に属することになる。音楽で言えば、使っている楽器が共通する集団ということがかなり決定的になってしまっているなあ。
いずれにしろ、そんな小集団、大きい国家であろうと対応する小さな国家のことを考えてごらん、小さな話なのに・・・。それでもより小さな集団のなかで、そんな世界の中心でなんか叫ぶのは、やめようね。射程の長い言葉をつかいたいものだ、と。
文字どおりの、こんなところに書かれることばでも、知人との会話でも。子どもたちと話すときにも。


と、書いては見たけれど、射程が問題なのではなく、立場ということがそんなに大事だろうか、という話かとも思えてきた。ある立場でしか話せない、書けないのはどうしようもないくらいだけれど、それを自明ととらえることはせめて避けよう、とか。自分の立場がそんなにしっかりとしたものではない形で話したい。
今の私は立場がほとんどないのだけれど・・・その苦しさもさることながら、立場を疑わない人たちの醜さをよく見える場所なのかもしれないと思う。そして、そんな立場に頼った言葉しかつかえない言葉の貧しさも。
・・・というのは、私自身のことでもあり、私の言葉が貧しいのは、やはり私も立場を頼ってしか語れなかったということで、それがなくなって本当なら何も語れなくなっていたと言うことで、どのような立場にもそんなことにとらわれない言葉を使うということはあるもので、そんな言葉を使うひとはいるもので、私は残念ながらそうではない感じがする。


せめて、くだらないことを語らないように気をつけようということかもしれないが、もちろん、これもそうではないはずもない。