「ミヤネ屋」の宮根誠司と「ぴったんこカンカン」の安住紳一郎

この2人の出た正月の「ぴったんこカンカン」の事がネットで書かれていて、それは見ていなかったのだけれど、たしか10月にあった同じ番組での同じ2人の企画が面白かったのを思い出した。


プロフェッショナルだなあ、という感じ、しかし、一般的に言う、プロのイメージ、「この仕事ではここまでやらねば」あるいは「できる限りを追求する」という感じのそれではなく、その「ここまで」「できる限り」がなくて、いや全然あるのだけれど、その時点その時点で答えを探るときの・・・なんと言えばいいのだろう。反射神経もあるのか、いや、職業的にはもちろんそうだけれど、結局は心の置き方、在り方だろうか。あるいは、禅なんかで、何かにとらわれてしまうことから逃れる(?)ことを学ぶのだろうけれど、それは自在さだろうか。自然体とかそういうことと言ってもすごく間違いではないのだろうけれど・・・。禅などと言うと、実はすでに禅を学んだということにとらえられてしまう・・・とらえられてはいけないということにとらえられてしまったり、なにかにこだわってしまうことが逆にそこから解き放たれたときの自在さにつながることもあるだろうし・・・。アプリオリ、とかいう言葉があったけれど、いや、そんなややこしい話にしなくてもいいか。


安住アナは以前からけっこう好きで、ちょっとテレビでも見たいな、というときに「ぴったんこカンカン」がやっていると、見させてもらう感じだ。楽で助かる。「ミヤネ屋」のほうは番組タイトルの意味がわからないと思っていたら、司会者の名前だった。しかもアナウンサーが本職だったとは。
10月に見た番組では、安住アナはTBSの「局アナ」なのだけれど、宮根が「フリーになる気はないの」という話をしたあたりに、不思議な緊張感と開放感が同居したような感じ、普通なら隠されている舞台裏でもあり、しかもそれはそれで芸になっているという不思議な時間だったような覚えがある。アナウンス学校に2人が登場する場面も似たような変な感じがあり、それも面白かったけれど、アナウンサーの卵たちというのは、いったいなんなんだろう。見てはいけないものを見た感じだ。
宮根アナ(?)は第2のみのもんたなどと言われているようだけれど、つまりは普通あいまいにしておく何かを言い切ってしまうところが共通しているのだろうか。違うか。「ミヤネ屋」はあまり見たことがないが、そこに出る人にまで「さすがミヤネ屋」なんて言われているのを見た気がする。テレビ界では押しも押されもしない、という表現はちょっと違うな、なにかそういうポジションだろう。みのが反感を買ったり批判を受けるのは、敢えてそれも覚悟でという部分があるのだろうし、その言い切る内容に私はあまり共感できないのだけれど、宮根ならわかる、という感じはある。でもあまり見ていないから本当のことはわからない。私は「たかじんのそこまで言って委員会」という番組がそこそこ好きで、宮根は似たにおいがするので、そこも気になっている。
安住アナは変なことを言われてそこへの返事するでもない受け答えが絶妙というか、当意即妙というか、しかしそんな格好いい感じでもなく、二枚目を馬鹿にする楽しさがありつつ、相手をやりこめる気持ちの悪さもなく、気持ちがいいのかもしれない。


全く的外れなのかもしれないが。