私は誰だ 13 言葉や論理2

問題は、いや問題という言葉が適当とは思えないな。とにかく・・・つまりは何をするかということではないかというように思ったのだけれど、上手く書けているような気はしない。
何かにこだわっていたようで、それが問題ではなく(この場合の「問題ではなく」はOKか)何かをするのだ。こだわっていた? とにかく思いついたことを言葉にすると何かが違う。


言葉の射程というようなことについても、何か思いついたのだが瞬時に忘れた。この、思いついたり忘れたり、何か違うことに変わってしまうというのはどういう事なのか。言葉は、また私の場合は作品は、ということもあるけれど、何かおかしなことになっている。
そして、おかしくないのが普通であって、その普通の人がたくさんいるわけで、普通にしゃべったりブログを書いたりコメントしていたりして、それは不思議だなあ。
というようなことを書いてしまったけれど、言葉の射程の話に戻り、あるいは言葉の届く範囲と言えば良かったのか。それは前提としてあらかじめ想定されていて、その範囲で間違いのないことを言えば、受け入れ可能だ。
その前提というものは社会的に、それがちいさな単位であっても、共有されていれば問題はない。「ああ、ここまでの範囲で言ってるんだな」と、思うまでもなく了解される。
で、私は何をしたいのか、その前提である範囲を少なくとも疑っているのには違いないな。
何かを語るときに、その前提もともに語るのでなければ、間違ったことを了解しあうことになってしまう。それは断固拒否したいのだ。たぶん、私は。


商売の世界と、学校の世界に、私は引き裂かれているのではないかと思う。
というと大げさかもしれないが、どちらもほとんどの人が当たり前に関わるようで、そうでもない。
商売の世界で働く人、そこには隠されているわけではないし、でも隠れてしまっているような現実がある。ろくでもないことが横行しているということはなんとなくわかってはいるけれど、そんなに大げさなことか、というような認識くらいは持っているのか。
あとは、学校だ。別に隠されてはいないと言えばそうなのだが、学校の教師というのは学校の裏側だ、というような妙なイメージを、ずっと私は持ち続けているということに今気付いた。きれいごと、建前、というようなことがあり・・・。そういう事じゃあないのかな・・・。


言葉の前提とする範囲、ということで言えば、学校で習う事というのは、非常に狭い前提でしか成り立たない理屈や知識なのではないか、それがまるで原理原則としてこの世の中に存在するかのように・・・。
違った言葉で言うと、試験問題が前提としてあって、それを解く意味では正しい。1+1=2なのだ。が、1+1という問題が出されるかどうか。1+1ではなくたて、それが計算問題かどうか、計算が問題になる世界かどうか、という問いそのものが問題にはならないことが、問題・・・いや、問題という言葉が適当かどうか・・・。


急に現実的な話にさらになってしまうと、学習塾というものがあって、あれもやはり学校と同じで、問題を限定してそれを解決することを訓練する場なのだけれど、そんなことに、ひとりの人間が長い時間を費やしていいものだろうか。学校以上に問題を絞り込みそこに集中することで効果を上げるということに。


というような話に、何かをするということを書きたいためになったのだけれど、最初のほうを見ると、「何をするか」と書いている。全然違うのか。でも次にはすぐ「何かをするのだ」という書き方になっているけれど、私自身何が何だかわからないが、何かをつかみかけた感じはちょっと書けたような気がするので、満足した。



あとは、精神異常とかそういうことについて考えていて、何かをつかんだような気がしたのだけれど・・・。
あと、もうひとつ、ついさっき考えたことは・・・何だったか・・・。
むちゃくちゃなので、読んでしまった方には本当に申し訳ない・・・そうだ、その読まれることと関係があった・・・違うか。そしてそれは本当にあとふたつ考えたことのひとつに関係があるのか・・・。