私は誰だ 14 言葉や論理3

言葉の射程距離とか、言葉の届く範囲、なんて書いてみたけれど、あらかじめ前提として言葉の通用する範囲が限定されている、それが、話者の知性の届く範囲に限られる、ということ。そのときの言葉のつかいかたによって、コミュニケーションを限定してしまうようなことがあって、それが問題なのかもしれない。
経験が豊富であればいいようだが、人はその経験を過信することが多いので、その場合はその経験の範囲でしかあてはまらない言葉しかつかえない、あるいは、そんな言葉でしか考えられない。交流の多い社会であればいいが、ただ社交に励んでいればいいというものでもない。利害の一致した人同士の、なれあいを続けていれば思考の枠はどんどん狭まっていくだけだろう。
むしろ経験のない事柄への想像力というもののほうが、信用できるのではないか。それを維持していて、経験ははじめて意味を持つのではないか。
私たちがこれから経験する時代というものは、今まで経験したことのないものだ。いやすでに長い間、現状の推移を認識しないまま古いやり方を続けてきたために、これからおこりうることに対応することを難しくしてしまった、そんな社会に生きていると言えるだろう。
日本が? いや世界も。
昔は良かった? そうだったとしても、昔は良かったと思うことが今を台無しにしているということのほうが、普遍的な真実なのだ。
こうでなければならない、ということはあるのだけれど、実際にそう思われているほどには多くないのではないか。
状況が変化しているのに、いままでやられてきたことを引き継ぎ、その成立の意味を失った営み。それを続ける上でおかしな大枠から変えなければならないのに、それができず、その、もう役に立たないシステムにあわせて行動し、行動のあとに考え、そのシステムの限界が個人の限界になり、その個人がその人自身や、他の人の生命力を失わせていく。


とはいえ、挫折したものの恨み言でもある。私の場合は。
その恨みを抑えられるようにならなければ、何もしないほうがましだ。
そんなときに、できるだけ静かに時を過ごすやりかたがっあったと思うのだろうけれど、うまくできなかった。
じたばたすると、縄は体に食い込む。自縄自縛という言葉もある。


何ができるのだろうか。
何かをやめること、あるいは、やめることが必ずしもありえない選択ではないと考えること。
それはあたりまえの、当然の話なのだが、なんだろうな、そうならない圧力。個人が自分の中に持ってしまっている。
私の場合は実際に仕事をやめた。何度も。それが悪いことだったという自責が残るという形で現れた。これはなんだろう。
最後に仕事をしてからまるまる半年休んだけれど、10数年同じようなことをしていた心の中というか頭の中の慣性の法則はかなり強力で、残念ながら自由な考え方をできるほうの人間ではない。上記のことは、私自身にも当てはまるだろう。


昨日考えたことでは、何かをしないと、考えることもできないということだった。
やっていることから考えが規定される。考えていても、やっていることと伴って変化するように考えなくてはならない。
音楽は惰性的にやってきたのか。じたばたしてはいたけれど、ひとりでそうしていることと、対外的にやっていることはほぼ全くかみ合わない。
彫刻は、惰性的だ。生命力を失い、形だけのことをしている、と、書いたほどにはひどくないと思いたいが、書いた以上にひどいような気がしてきた。
これらのことをつづけていいのだろうか。
やめなくてもいいかもしれないが、あるいは全く同じことを続けたとしても、考え方を変えなければならないだろう。


仕事、収入を得るということは、ないと死ぬと言えなくもないが、あまり重要ではないような気がした、と、私は失業給付を受けていたから考えたのかもしれないが。
社会の中で何ができるかということのついでに、収入を得ることを考えるほうが、少なくとも私の場合はいいのかもしれない。
多くの場合逆転していて、私もそうだった。
ただ、死ぬとしょうがないので、もう少しダメだったら、生きるためだけの仕事をしよう。
しかしその時は、それにとらわれてしまわないように気をしっかり持つように・・・。