私は誰だ 15

さっき教育テレビの「あの人に会いたい」に出ていた宗教家の方が、その父に言われた言葉として、「心と体が別だなんて」考え方が・・・信用できない、だったかな、そんなのは昔はなかった、だったか、ああ、そういえばそうだ、と、いうか、ほぼ心と体が別だとしか考えた覚えがない。子ども時代はそうだったわけがないのだけれど、いつからか。
最近は心と体は切り離せないというように考えるようになってきたが、それがそもそも心というものがあるということを前提とした言葉づかいで・・・そうだなあ、心なんて、ないかもしれない。それを前提とした考え方、しかし、どうすりゃいいのだ。
腹が減った、とか、誰かに会いたいとか、それを感じる主体? と、考えた時点でアウトか。頭の中にはそんな言葉もなく、誰かに会いたいと思う間もなく、その人に会いに行くとか、そうもいかないが、すぐにいつ行こうかと考えはじめるとか、それならいいとか、腹が減って、誰か何とかしてくれそうな人がいたらその時は頭の中で浮かぶと同時に「腹減った」という、そんな意識の在り方、そんな感じが思い浮かんだが、なんか変な連想。


心、らしきものがあるようなふるまいが、ある。
夢、体が外に向けて働きかけることがなく、体は勝手に動き、脳は記憶の整理をしている眠りの間の状態、心と体が分離し、心は時間の制約からも実は自由になっている。
まあでも、特に昔の人は、起きている間に自分が何だとか考えなかっただろうな。
そんなことを考え始めるのは、白昼に夢を見るようなものか。
夢を見てもいいけれど、そうしたら、実現しようと動き始めるならいいとか・・・実現するはずもない何か絵空事に心がとらわれ、何かしていても上の空、そんな状態になってしまった。少しは恢復しているものの、あまりまともではない、それが今の私だ。


その一因としては、手と目と頭だけを使って記憶と情報と対決しつづけたというかなんというか、仕事はしていても画面の中というか何というか、それなりに未来を思い描きつつも、というか画面の中にあるべき印刷物の姿をほぼ実現した上での仕事・・・お客さんのことも読者のことも、仕事場の状況もいろいろ考えながら・・・(考えない方が良かったこともあるだろうが)。
仕事がなくなってきて、その考える回転運動だけが惰性で続き、その動きに余計なものだけがくっついてきて、現実とあまり関係がない想念の塊が、心、の中に・・・。


読む方に心配をかけたくはないのだが、ちょっと書いてみたいことがある。
あらかじめ、心配はしなくてもいいですよ、と、書いておいて、心配されるような怖いことを書く。


私には、今も、自分の横にぽっかりと暗い穴があるような感覚がある。と、いつも感じているわけではないが、そして、かなりその扱いに慣れているような気がするし、暗い穴のようなもの、と、とらえることで無害化し、気をつけられるようになって、安全になっている感じもある。まあでも、普通の人にはそんな感覚はないのかなあ。
まあ、わかりやすくするために大げさにしてしまった感じもあるが、あまり自分がコントロールできないような感情にとらわれることは、つい最近まであったかもしれない、とも思える。
正月を乗り越えて、それ以前より安心して生きていられる感じがしてきている。
それは逆に、最近まで今より不安が多い、コントロールができにくい状態にあったのだ、ということがわかる。その最近も、以前よりずっと良くなっていたと思っていたし、それは正しかったのではないかと思う。つまり、以前は、自分がすごく異常だという感覚にずっとつきまとわれていたのだ。


ずっと不安の中にいて、一日のうち、シャワーを浴びて体が温まったときだけ、すこし自分がまともになった感じ、ほっとした感じがした・・・いや、今日も、シャワーを浴びたあとに同じような感覚があった。ただし、一日中不安だったりしたわけではないが、「やっとほっとした」感覚は、さっきもあったのだ。今も少しは悪い部分が・・・。


基本的には、少なくとも言葉では、今もおかしな考えばかり浮かぶ。
・・・今はかなりまともで、おかしな考えが浮かぶ内容を思い出している状態で・・・。
たとえば、消えてしまいたいとか、これを読んで心配はしなくていいと思うのだが、死んでしまいたいというようなことを考え、感じてしまうことも多かった。今も、それに近い考えはうかぶ、が、生々しさは薄れている。
現在はそういう暗い言葉を与えて、想念を方向付け、そういうものとして、固めて、無害なものにする、というような心の動きで対応している状態なのではないかと思う。
暗い気持ちにほぼ完全につつまれていた2年くらい前の頃、自分は存在する価値がないし、実際に存在しているということもあやしいのではないか、と、実感していた。
その時も自分は実際に自殺するというようなことには関係がない気はしていたが、それが逃げ道がないようにも感じていたけれど・・・。


落ち込んでから、少し元気になってきて、そのときに自殺するということがある、というのは、けっこうわかる。
最悪の時は、そんなことをする余裕がないのだろう、元気になったら、自殺する力も出てくる。


死にたいとかいうのは、逃げだ。そんな言葉を思い浮かべると、何か少し楽な気持ちになる気もする。私はそれで、逆に死ぬのはありえないとも感じたけれど・・・。
まだその先に違った理屈が付いてくるということもあるだろう。死にたいと考えている自分は最低で、死んだ方がいいとか、この変な言葉の在り方を、どうとらえていのかがわからないが、死にたいなんて、くだらないとか、そういう言葉を思い浮かんでも、その次に、死にたいなんて、くだらないことしか考えられない、自分は本当に価値のない人間だと感じる、とか・・・。
怠惰で、誰でも立ち向かっていることにむきあえない、自分はダメな人間だ・・・。
逃げたり、怠惰だったりすることは、悪いのだ。と、正論を言われて、悪化する・・・。


・・・何か他にも関連して書きたかったことがあった。
精神疾患の治療のための表現は良くない、という根拠のない主張をしている、幼稚な人。
こういう人の言葉に触れると、若干の怒りと、哀れさを感じる。この人だけではない社会の未熟を考えさせられる。
このひとは、でも、そんなにひどい方の人ではない、と言えなくもない。社会にもっとひどい人はたくさんいるのだ。
そんなにひどくはない人たちも、なにかのすれ違いで、足を引っ張りあい、中傷しあい、もっとひどい人たちに嗤われている、とか。
精神疾患とは、自ら表現して治癒できる場合は、言えないだろうし、精神疾患など、決まった形はない。本人か周囲がそう認定しなければ・・・。さらに、精神の危機を表現で乗り越えるようなものが、実は表現としては健康ではないのか、しかも、こんなおかしな世間なのだから・・・。
というのは、この前までの内容と上手くつながっていないが・・・。


そう、その、ひどい人たち、それは、ひどい人たちではなく、ふつうのことをしているだけなのだ。
ただし、彼らの思考の射程は短い。様々な立場への想像を自分ではできない。なにか教わったような言葉や、ありきたりのイメージにあてはめて、決めつけて、なんとか自分を正当化し、そのために不必要に関わるひとたちをおとしめる。
いや、それもまだひどいうちには、入らない。
悪いことを平気でする人たち、いるのだ。ていうか、そんなひとが多い・・・。
しかし、同じ人が自分の子どもに持っている愛情が、そんなに間違っていると限らなかったりするということも、あるかもしれないと思ったが、やっぱり間違っているか。
人種差別主義者が仕事を大切にし、それに誇りを持っているとか・・・そういうことはあまりないのか、あるのか・・・。


と、また訳がわからなくなってしまって終わります。