音楽と構造 3

ふと、Aというひとと、Bというひとと、同じ作曲家の曲を好んで聴くとする、しかしBという人がそれを聴いているのはいいことで、Aという人の場合はよくない、というようなことがあると思った。
惰性的な聴取と、聴くことでその人の音楽的な感性、知性に変化をもたらすような聴取の仕方。流行っているから聴いて、慣れたからいいと思うような聴き方、がA。その曲に何かを感じ取り、それが気になるから聴くという聴き方、がB。・・・とか。
と、いうとらえ方はもちろん単純化のしすぎで、同じ一人の人がAとBの両方の聴き方をする、その時々でちがうということもあるだろうし、同じ曲を聴くときに両方の要素が混在することもあるだろう、が、ある種の典型として二つのタイプを考えることは、私にとって重要に感じられる。
いいとかよくないとか、惰性的、なんて書いてしまうあたりに露骨に私の価値観が現れているところから始まり、途中からそれが偏っているような気がしてきてこんな書き方になっていることに今気付いたのに直せないのだけれど・・・。


西洋音楽と言うけれど、これがくせ者だという気がしてきている。民族的な(民俗的?)要素と、抽象的な要素・・・抽象的・・・? 西洋音楽というものはないといえばないのだ。西洋・・・この際ヨーロッパに限定しつつそのヨーロッパ各地の音楽は、ちがう。それはグラデーションのように・・・ウイーンが東欧に近いせいか、トルコの音楽が流行ったこともあったのか・・・トルコが攻めてきたのだったか。ただ、それぞれの土地土地の音楽ということのほかに、普遍的な原理を追求しようとした時期というか、モメントというか、同じか、そんな事があって、というか、今もあるというか、土地土地の音楽それぞれにその原理がからんできただろうし、そのようなモメントが、クラシックということなのか、規範? 原理?
ふと、一神教的と思ったけれど、あるいは科学的、合理的・・・何かしらのあるべき姿を描こうとするモメントだろうか・・・ところで「モメント」ってなんだっけ。
実際は機能的和声なんて言葉がその規範のようなことに深く関わっていると思うのだけれど、実際には民族音楽の特有な構造と、その機能和声システムが、緊張関係にあってさまざまな実り多い成果を上げてきたという気もするが。
それ、その西洋音楽の営みとは、何だったのか。
時間意識が西洋音楽と相容れにくい民俗音楽もあり、アラブやインドのように(と、私はなんとなく思っているだけで実際は違うかもしれない)絶え間ないリズムの反復の上に音の模様のように旋律と言っていいのかどうかわからない音の動きがつづくもの、と、曲の進行とともに何かが起こり、不安定になったらもとの音にもどりたくなるという力学が仕掛けられているものと、ほとんどのクラシック音楽とは違い、クロスオーバーも、しにくい・・・というのは単なる私の誤った認識かもしれないが・・・。
あと、上でヨーロッパに限定したのは、アメリカの音楽というものが西洋音楽の延長でもあり、アフリカ音楽の延長でもあるということは、私が最近まで思い描いていたよりも、はるかに大きな事ではないかという気がしてきたということで、ヨーロッパ発の歌、ソング(イギリス・ドイツ?)や、シャンソン(フランス)、カンツォーネ(イタリア・スペイン?)なんてものがアフリカから来た、連れてこられた人たちの間で変化してブルース、ラグタイム、ジャズ、等々に・・・と思ったのだけれどラグタイムもジャズも歌とは限らないか。いずれにしても平均率ってものが・・・これは必ずしも機能和声を伴うシステムじゃないのか、あれ、なんだろう。菊池成孔の本を読んで少しはわかった気がしていたのに・・・。
ともかくアメリカ音楽が大きな意味を持つのは、シート・ミュージックと、ラジオ、レコードなんてもののために広まり方が変わったこと。平均率が、本来平均率で演奏しなかった日本の琵琶や三味線の奏者にまで耳から影響してしまったとか、そんなこともほんの一つの要素である、何かものすごい変化・・・。


関係あるような、ほとんどないような話、私がボールを投げるフォームというのは、テレビでマンガやプロ野球を見てしまったからできているフォームなのであって、それが無ければ「女投げ」であったのではないかということ。小学生時代男の子ども同士の野球っぽいことなどをあまりしなかった割に、中高では体育の時間などでそれなりに普通に野球ボールを投げたりできた。が、バレーボールのトスはなかなかできなかった。それは、テレビで見ても何をやっているのかあまり良く見て取りにくいものだったからではないか、など・・・野球の場合、投手が投球しているフォームはじっくり見ることができる・・・。


なんだか断章になってしまったが、私たちが小さなボールを投げるときに腕をしならせて投げてしまうこと、それが本来当たり前ではないのに、ということと、西洋からの音楽の流れが、アメリカで突然変異しつつ世界に拡がって、そんなとものを当たり前だと思ってしまっていること、が、似ていて・・・。
たしかにボールを早く正確に投げられることはいいことのような気もしないではないけれど・・・。
音楽のあるひとつの曲にドラマチックな構造をパッケージして、聴く人がその構造を聴取することである種の納得感を感じる、という音楽の特殊な聴取の仕方を当たり前だと思ってしまうことを、音楽のあり方のスタンダードのように感じ、そのように進行しない音楽を奇妙なものととらえてしまうような感性・・・。


てなことはこう書いたような額面通りに起こっているわけではなく、日本の場合は明治の音楽教育がその後も色濃く残っていて、イギリスの唱歌(?)を歌わせたことが、最近まで色濃く日本人の音楽の好みに残っている、「蛍の光」をみんな学校で歌うからアイルランド系のものを好む性質がある、というようなことを最近読んだのを思いだしたり、そんなことや、日本の歌謡曲に五音音階が多かったり、事態はややこしく、そんなややこしさが世界各国いろいろあるなかで、恐ろしいことに韓国や、中国でもその五音的日本から少しまた西洋化したようなそうでもないようなニューミュージック的な日本のポピュラー音楽と、さらに西洋音楽の影響を容れたようなものが流行っていたりして、そんなものがまた日本ではやったり、北海道のラジオ局ではタイの流行音楽が聴ける番組があるけれどそれはそれで普通に聴けたり、ラテンの音楽が世界に与えた影響もあったなとか、もちろん日本にも、とか、アラブの流行音楽がなんだかすごかったり、イスラムは思えば音楽を否定しているらしいと思い出した日にはめまいを感じたり・・・。


そんなことがマンドリンを弾いたりすることと何が関係あるのだ、というと、私の場合はこんなことに関心を持つためになんでもいいから楽器をやりたかったような、でも弦楽器が好きだったとか・・・それでマンドリンで音楽をやる上でも世界の音楽の歴史は無視できるわけではなく、クラシック音楽は基本的にオン・ビートでアフリカ系のリズムを取り入れたポピュラー音楽はオフ・ビートではないかということ、少なくともジャズやラグタイムはそうらしいということを最近読んで愕然としつつ、スカとかレゲエだけじゃないのか、とか。
実際に2年半前には私もラグタイムの曲を編曲したものをやる羽目になって、小節の頭のベース音を小さくしてくださいと皆様に本能的に、しかしすこしおっかなびっくりお願いしたのが正しかったことがわかったものの、そんなことを最初からわかっていれば、本当に自分の言っていることが正しいかどうかという不安にならないで済んだ、という話ではなく、自分が聴いたりしてきたものが得体のしれないものであったことがわかり、ほとんどの人が自分の接している文化の本質に気付かず恐ろしいことをしてしまう、結局は私たちの弾いた「エンターティナー」というスコット・ジョップリンラグタイムであるはずだった曲は、すこしは抑えたものの、ベースの人たちが小節の頭の音をブンブン出したいのに抑えている不満が聞き取れてしまうような中途半端なあやしげな何かになっていて・・・。
そんなある種些細なことと言えなくもないことがのどに刺さった小骨のように残り続けていて、今回はそれがあの日に食べた魚の骨だったとやっとわかったのだけれど、まだ骨がのどに残っている感じが・・・。


なんか、ウソくさいことをやるのはもうたくさんだという気持ちと、音楽は続けたいという気持ちが、上記のようなことや、その他諸々で自己矛盾を招いているのではないか、という小骨もあるらしいのだけれど、さて、それをどうやって取ったらいいのか、見当も付かなかったりするのであった。