食べることについて 1

もっと変なタイトル。


カップヌードルを食べた。安藤百福さんという、日清食品の創業者で、チキンラーメンカップヌードルの開発の先頭に立った人でもある、「プロジェクトX」でたぶん見たなあ、という人の生誕100年らしくて、発売時の価格らしい100円で売っていたのだ。中の具の、肉が最近少し変わったらしく、以前は挽肉だったのが、肉の塊である感じになっていて、しかし違和感がなく、おいしい。
この、カップに入ったインスタント麺は、先駆である製品、カップヌードルが、今もトップシェアを維持している、ということで、優れたデザインの典型的な一つの例と言えなくもない。


というように、最近はインスタント食品を以前よりひんぱんに食べるようになってきた。好きか、嫌いかというと、嫌いな方かもしれない。お金と時間にもっと余裕があったなら、もっと外食したい。それ以上に、自分で作ったものを食べたい。できるなら材料までも、山で採ってきたり、畑で育てたりしたい。
しかし、そんなことができない、というのはお金がないのと、時間はあるけれど無気力だから、だ。
あとは、「プロジェクトX」ではないが、ものづくりのひと、製品開発の人の努力が面白いからだ。そんな理由でインスタント食品も食べる。


外食したいのも、そんなことをしている人に興味があるからだ。インスタント食品と違って、作っている人が目の前にいるのだ。面白い。
自分で作るのと違う工夫がある(こともある)。職人が上手くないことも多いが、旨いとうれしい。
しかし、そういった、料理、調理に関する人文的知的要素をとりのぞくと、自分で作りたい。
それは、安くて旨いからだ。あと、料理も面白い。科学芸術的知的要素・・・かな。
が、今はほとんどしないけれど・・・無気力だから・・・。


化学調味料を使った画一的な味文化というものは、そのこと自体に健康を損なう要素があるというように感じている。味覚から得たデータを脳で集積し、旨いとか不味いとか飽きるという感覚で、生命を維持することが支えられている。
うまいものは体にいいと言われていて、それは真実なのだけれど、舌のセンサーと脳のプログラムの状態によっては、必ずしもそのようには働かない。そのセンサーとプログラムが、快感とともに正しく働いてもらうために、栄養価の高くおいしい天然の食材を、その特性を活かした調理法で食べる、ということを続けるのが、生命体にとっては正しい。
ただ、人間は往々にして正しい生命体の在り方を続けられはしないものだ。


このように、科学的に正しい食事(?)に関する考え方に自信を持っている。
とすると、外食か自炊が正しい。外食の場合は、しかし、あまり正しくないことも多い。ファースト・フードは、そもそも外食の範疇に入れるつもりではなかった。なるべく自炊をしたい。
が、思うように行動できないというのも、世の常だ。


次善ですらないのだが、多くの人々の所得配分が不均衡な状況で、生きるためのツール、それがカップヌードルに象徴されるインスタント食品。
健康を害することをなるべく抑え、とにかく安価で、時間を費やすことも抑えることが出来る、その点では優れたデザイン。
必要以上に人を傷つけるのではなく、企業の利益を追求するシステム。だと、いう、点については、日清食品の企業イメージが悪い方ではなかったにしても、あまり人間が食べるのにふさわしいものではないという主張もあるかもしれない。
が、なんか、正しいことばかりするのも、ちょっと嫌な感じもするし、カップラーメンも案外おいしいんじゃないか、というくらいの自分のほうが、好きかもしれないのだ。
こんな日本で生きてきた時間を、必ずしも愛していないわけではないのだ。