無能な人 2

なんというか、いったい、なんなんだ・・・。
とりあえずやっと本格的に就職活動を始めようというところで、いや、いままでしていなかったわけではないのだけれど、それよりもちょっと何かやっただけで満足してしまい、結局はまだ何にも始まっていないのだが今までより何かしただけで少し安心してしまっている。
ということを、今頃、失業してから9ヶ月(実質10ヶ月)、失業保険が切れてから3ヶ月経とうというときに、まだやっている。
と、いう、私は、なんなんだ。
というところに、少し小さな仕事が来ている。で、また少し求職の応募書類の提出が遅れる。寝ないでやればいいし、それ以前にこんなことを書いている場合ではない、ということだが、これでいいのだ(byバカボンのパパ)。
いや、良くないのだが、しょうがないのだ。


気が進まない、などと言ってはいけない。みんな大変なのだ。しかし、そんなことがばかばかしいと思う。
変な世の中だ。金を持っている、立場の強い人のやりようはろくな事がない。もちろんそんな場面ばかりではないのだろうが、そうじゃない場面というものを、公務員を辞めてこのかたあまり見た覚えはない。
印刷にかかわる仕事を選んだことが間違いだというのは、間違いないとは思うのだが、しかし、そんなおかしな印刷の現場で作られたものを、ほとんどのこの国の皆さんが毎日のように手にしているのだ。最近は違うか。新聞は買わずにインターネットを見るのかな。新聞チラシがないと不便ですね。最近のスーパーは店頭にチラシを積んでおいたりしているなあ。という話ではなく、良くない業種に就いたアタシが悪いのか、という話だろう。
ひどい会社だという噂のある会社に、まず勤めてしまったことが、そんなことをしたアタシが悪かったのか。
それはそれで面白かったし、私は世間知らずだということで、世間知らずらしくそういうところに迷い込んで働いて苦労しなければならない気もしていた。また、そういう会社でも生き延びることの出来る自分だと考えたかったフシがある、と、今は思う。それなりに力強く仕事をこなせたという自信が付いたようでもあったが、残念だったのは、健康に若干障害が出たような気がすることだ。
健康に障害というのは、おおげさだ。肩こりなどなかったのがひどい肩こりになったとか、腰が悪くなったのは、もしかしたらそれからかと、今になって思うとか、あとは、3年つとめてそこを辞めた後、ひと月は毎日10時間以上眠ることが出来て、起きている時間にはほとんど何も出来なかったような記憶がある。疲れというものはこんなかたちで出るものなのか、と、思った。あれを鬱だというと、それほど間違いではないと思うし、逆にその間ちゃんと眠れて、ちゃんと回復していったのだから、何かというと眠れなくなる今よりまだマシだったという事も間違いではない。
しかし、やってもやっても追いつかない仕事に追われる(あれ、変な日本語か)、ちょっと恐怖にちかい感覚、あれは何かその後の私に影を落としているかな。そんな中で、どんどんやめていく人がいた。その人たちがやるはずだった仕事を、残った人でやるのだ。私がそれなりに誇れるのは、仕事が落ち着いて、さらに私と同じように仕事が出来そうな人が入ってきて、ちゃんと引き継いでやめたということだ。ああ、でも、そんな責任感は、結局たいして得にはならなかったかもしれないなあ。
去年はその時に比べると本当はずっと楽でも良かったのだけれど、精神が思うようにしなやかに働かなかった。いや、もちろん私はしなやかな精神などもとから持っていない。しかし、それどころではなかったのだろう。予期していないことや、逆にもしかしたらよからぬ事になると思ったことなどが実際にあると、少しの留保も持てずに駄目になってしまう感じがあった。
心は生き物で、たとえば木の幹や枝のように、たわみに耐えるしなやかさを持っているはずが、そういう性質が劣化し、もろくなるのだろうと思う。
9ヶ月かけて少しは回復したけれど、それは、また働いた途端に悪くなっていくんじゃないかという不安がある。今も、何かというと気に病むし、眠れなくなる。


しかし、ろくに働かないでもうすぐ1年か。
そんな人間は死ねばいいのに、と、若い頃の私ならちょっとは思ったろうか。いや、そんな考え方をした覚えはないが、極端に言うとそういう人が多いのは知っている。今もこういうことがいいことだとは思っていない。さすがに。


テレビを見ていて、派遣と正社員のちがいはどうしてそうなるのかというときに、的外れな話をした経営者(だったと思う)がいたが、ある意味で正鵠を得ていた。
「それは、早い者勝ちなんです。これから雇うひとより、今までいっしょに働いてきたひとを、どうしても大事にしたいのです」というあいまいな記憶で私が書いている言葉では伝わらない真情があり、それはもっといくつかの言葉で補強されてもいた。それはそれでわかる話だとは思った。あまりあるべきことではないと思ったが、そのひとが実際にやっていることだとは限らなかったし、多くの、あるいはほとんどの事業所はそんな感じの思考パターンにとらわれるな、とも思えた。それは必ずしもひどい心性の表れではなく、仲間を大切にしたいという心の表れでもあろう。私は好きではないが。
実は、才能が好きだからなあ、私は。能力主義だ。本能的に。
なのに、無能なのかあ、何だろうなあ、この話。



ということとは別な話で、仕事は社会の、あるいは誰かの役に立つものなのだった。なぜかわけのわからないことになってしまっているような気もするが、誰かの役に立つことを誰かがして、何でもかんでも自分のことを自分でやるより、そのほうがいろいろうまくいくからみんなでそうするわけで、すごくいいことだ。
ただ、やりたいことをみんな出来るわけじゃないというのがある。
それと、金の話、所得再配分なんてことば、どういう文脈で使われているかはわからないが、マクロの視点(客観的な視点)からするとそういうことで社会がうまく機能するわけで、お金はそこで大切な役割をする。
しかしそれが個人の視点からすると上記のような話になってしまう。
何が悪いのか。



いや、まあ、それもいいとして、私は何をやりたいのかなあ。というと、何でもやりたいという気がする。 コンビニのバイトも一度はやってみたい。しかし、それでは母親からの借金が増えるばかりだ。肉体労働もやってみたいが、ちょうどいいつらさ、難しさの仕事はなさそうだ。今の私では体力がなくて仕事にならないものがほとんどだ。
などなど。まあでも、いろいろ考えて、応募しようと思う。