吉田健一について

皆さん、知ってますか、吉田健一。アニメーターじゃないですよ。文学者。
私はアニメーターさんの吉田健一さんも知っていますとも。ちょっとなんとなく知っているだけだけれど。
と、うっかりそちらの吉田健一さんの話もふくらませてしまいそうになったけれどやめます。


ちょっと書きたかったのはあの麻生太郎吉田健一の甥なのか、ということで、あまり関係はなさそうだと思っていたら、今ちょっとネットでアレで調べてみたらあまり関係がないので良さそうだ。麻生太郎はしかし、おじさんの本は読んだのだろうか、という話になると、むしろ読んでいてほしくないような気もしているのだ。読んでいてあの様子だというのもあまり解せない。そういうことの機微はあるだろうと書いてみるが。
麻生太郎はそういえば先日たけしの番組に出ていて、幼い頃家(別荘?)の前で新聞記者に話しかけられ、「お前のじいさんが死ねば世の中が良くなる」とかいうようなことを言われたらしく、それはやはり残念な話だと思った。しかし、そんな話に実際にがっかりするのは当の記者連やマスコミの人たちかもしれず、また逆にそんなことにナイーブになってはいられないというものかもしれず、いずれにしても、そんなことがのちの総理大臣のメンタリティに影響をを与え、マスコミ対応にも影を落としていたということを、どうとらえていいかわからないものだ。
と、また話がそれて、今度はそのまま書いてしまった。


吉田健一の本を、文庫本で2冊持っていた。忘れていた。しかも食通の本みたいなもの。
吉田健一という人間は、ちょっとは気になっていたので少し読んでみたら、すごかったのだった。
読んだのは食通的な話ではないもの(も入っていた)と、食べ物の話各2篇、食べ物のほうは特に短いものだったが、そのひとつは戦後バターとパンの味がしなくなったという話で、それは本質的なことだと感じられた。
味がしない食べ物を食っているという話でアメリカというものの本質が、端的にあらわれている。そんな食べ物が広まってしまうことに、戦後の日本の、またちがった意味での重要な一面も正確に描かれることになっていて、ついには今もそんな味のしない食べ物を私たちは食べていて、いつからそんなものを食べているかということは、忘れているんだなあ、というか、そもそも考えなかったのだということが・・・それを対象化できることが、ありがたいのだった。
それだけではないが。そんな要点のつかみ方が、どうしてそんな数ページの間にできるものか。こんな内容で。


なぜ吉田健一が気になっていたかというと、多分石川淳とのかかわりからだったと思うのだけれど、なぜ石川淳が気になったかというのは、武満徹の曲が石川淳の葬儀でかかったという話を読んだからだった。それから石川淳をけっこう読んだ。20年は経っていて、読んだのは10冊ではくだらないと思う。
吉田健一の本を買ったのも2年近く前かもしれない。もっと早く読めば良かったのだけれど、そうもいかなかった。お金がなくなったために読む本を自分の本の山から探し、やっと見つけたのだった。
もとから探していた本はまだ見つからない。

私の食物誌 (中公文庫)

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新編 酒に呑まれた頭 (ちくま文庫)

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