自殺について

(これは、2006年11月20日に書いてミクシイやブログに投稿しなかったものを、今日大幅に推敲したもの)



以前ある小説で、「死のう」と思った途端に何か世界が開けるような感覚が生まれ、精神的に再生するようなことが書かれているのを読んだ気がする。
その主人公の場合は文学的か、何か、生きることに行き詰まったのだけれども、死ぬことを一度考えて見た途端にそのことから逆算して(?)思考が進みだし、世界が開けたのだと思う。要約すると実感がともなわないが、とにかくそのイメージは面白く、読んでから私は精神的な行き詰まりに少し対処しやすくなったかもしれない。
たしかある発明家のような人が、こちらは事業に失敗したのだったかと思う。自殺しようと思い、しかしその人はその後生涯ずっと創造的に仕事をし続けたのだ、という話も読んだ。
絶望には実は限りない可能性がある。こともある。


「いじめ」を苦にした子どもや、「モンスター・ペアレンツ」に追い詰められた学校の校長が自殺し、話題になっていた。
苛烈な「いじめ」やクレーマーは日本中に存在しているだろうから、自殺してしまった子どもたちは必ずしもその中で最悪の扱いを受けているとは限らないだろう。いじめが原因の自殺であるだろうが、その子らが自殺に踏み切ってしまった要因は、他にもあったかもしれない。特に、偶然、たまたま、やさしいはずの両親の態度が冷たく感じられたとか。校長までつとめることになり、自殺するような誠実さを持った人が、敬意をもたれないわけがないと思いたいが、周囲が何の対処も出来なかったのは、何か偶然か、あるいは、誰しもが持っている先入観か、生活習慣か、鈍感さかが、周囲の人の、亡くなってしまった人への、生来人間なら持っているはずの大切な人間の危機を、いや今何が起こっているかを関知するセンサーを鈍磨させてしまったものと思える。
たぶん、死ななくてもいい人が死んでしまっている。もっと待つことが出来たらそのつらさが財産にもなったかもしれないというのに。


過去いじめを受けていたという若い女性が、いじめがあまりにつらいと、加害者の子どもたちが悪いというより、自分がいなくなればいいのだというような気持ちになるのだと話していて、そのひとの話し方にも説得力があり、合点がいった。
自分はひとりしかいないけれど、居場所はひとつだけではないというようなことを話していて、これもまたこうして私があやふやな記憶で文章にするより遙かに説得力があり、被害者の子どもたちに是非きいてもらいたい、と思える内容だった。
自殺してしまうまでに至るにはその人の内的な問題を見過ごすことが出来ないのではないか。ただしその内面を作り出す社会的な要因までも考えるべきだろう。家庭や、地域社会、またマスコミなどの情報的環境がその子の中に育んだ世界や社会環境のイメージ、道徳観念、人間のあるべき姿、のようないままで培ってきた感覚では現状の自分の窮状を自分に説明できなくなるのだろう。
社会はおおむねは正しいはずのものだし、友達は大切なものだ。そのはずなのだが、友達を大切にすることが許されているのは自分を攻撃する側の者たちだ。自分の受けている仕打ちをする人を認めると、自分の存在が危うい、とはいえ、誰かを否定することがあらかじめ禁じられている。矛盾を解決するには、自分がいなくなることがわかりやすい。
さらに、そんなように感じても、言語化できていればまた、その思考を相対化でき、逃げ途を見つける可能性もあるかもしれないが、非言語的な思考・・・感覚と結論が一体化するようなかたちの・・・自ら死ぬということで、整合性を感じてしまうのかもしれない。


加害者と被害者の違いは、社会のイメージの違いもあるだろう。加害者は被害者よりも社会の実態が「あるべき姿」らしきものとは違うのがあたりまえだということを知っているのかもしれない。なんらかの形で他者に対して優位を保つことが重要であって、その形がどのようなものかは二の次なのが現実だ。
「くだらない世の中で、くだらない人間がいっぱいいる」のに、世の中で正しいことが行われていることを前提に教育が行われていることが自殺者を作る要因の一つという言い方も出来るかもしれない。
くだらないとは言えない。利己的であることを否定することもおかしい気がする。が、なぜそれと利他的であることとが両立すると考えられないのかが、ひでえ問題なのだが、なかなか難しいのだろうな。
正当な理由で高い地位、豊かな生活等々が得られるとは限らない。もともと豊かな家庭の子どもが豊かさを受け継ぐことができるのはある意味正当だが、貧しい子どもが不利な条件で長い長い学力などの競争レースに臨まなければならないというのは、実は不当なことだ。多くのこどもはここから社会の本質を思い知る。ていうか、何かどうしようもないということを感じ取るかもしれない。
しかし、とにかく、人間関係からルールを取り去ることは簡単でもあり、いじめに成功すれば優位を保つことが出来、多大な努力もいらない。もともと不当な立場にある者が、なにをためらうだろう。もともと有利なはずだと思っているものがその地位を脅かされても同じだ。なにを躊躇することが・・・これらはのぞましいこととは思えないが、事実だろう。残るのはナイーブな人たち。
いじめる方の彼らも、このように言語化すればさすがにその浅ましさに気付く者もあるかもしれないが、他の言葉で言い換えることも可能だ。
伝えられるのが、いじめで誰かを死に追いやっても何か薄笑いを浮かべさえするような子どもや若者の言動らしきものであることもあり、そんなものがネットで流れて私までもがそれに接してしまうことがあった。まことしやかに語られているにすぎない、とばかりは思えない。
そんなものはどこにでもあり、普通にその辺を歩いているような人が、そんな局面に出会ってそういう行き方を選んでしまったために、そうやって生き続けるというだけなのかもしれないが、わからない。


全国であまねくいじめが存在しているにしても、確率的にたとえば1/10くらいで悪質さが常識的な範囲を超え、対処が難しくなるとすれば、9/10のひとたちの多くはその存在を気付かないかもしれず、1/10のひとたちの多くも口をつぐんでその多くの人たちと共に歩むのかもしれず、その確率が1/100と99/100かもしれず、そもそも悪質さは計れない。
きたない世の中であっても、それに屈せず生きるほうが、不当な方法や、不当ではないが金や権力などある種偶然手に入る種のものでは得られない幸福、健康を得られるのも事実ではあるが(残念ながら私はそれを自ら実証できそうもないが、そんな実例はいくらでもあるだろう)、そんな世界のある種の心理までを説明してあげねばならない窮地に陥る不運もなくそんな境地に達するひとのほうが多いかもしれず、しかしあるいは窮地に陥ったのちに境地に達する方が強いかもしれず、そのヒントはほぼ頭の中だけで生まれるのかもしれない、というところで冒頭に戻るのだ。なにか、いつか、どこかで出会ったきっかけはあるだろうが。
絶望には実は限りない可能性がある。かもしれない。


ひどい人間が多いにしても、ただくだらないだけという人間は、これはなかなかいないかもしれない。
くだらない人間がいっぱいいるのは、なにかくだらない原理で社会が動いているためだろうし、個人に帰することばかり出来ないある種の社会の病だろう。
それはある程度でも覆すことができ、それを目指すことは楽しい仕事につながるかもしれない。
最初に書いたある発明家のようなひと、バックミンスター・フラーの仕事のように。



(というところまでが3年ちょっと前に書いたものを今の考えに照らして大幅に書き換えたもの。
考えが変わった部分は削除したものの、そもそも今こんな事を書こうと思いつきはしない。
このころからやたら焦燥感が昂進し、と、今書いたけれど、それ以前、2003年頃から始まった気がしてきた。いや、2002年かもしれないが、何か遠い過去のようだ。
いずれにしろ最悪の時期は2006の末から9年の夏くらいまでの3年間だったと思う。ただし、今がちょっとした中入りに過ぎず、これから本当の最悪の日々が来ないとも限らない。
などと暗いことを考える必要もないのだが。また、こんなことを書いているけれども、さほど暗い気分でいるわけではないのだが。)