変な演奏の話 1

午後、楽器を弾く。
その前にちょっと楽譜を作ろうとしていた。フォーレの「MI-A-OU」で、組曲「ドリー」の2曲目。1曲目の「子守歌」のほうが有名で、一時はNHK-FMの番組のタイトル曲になっていたが、「MI-A-OU」のほうは、ころころ転がるような楽しい曲で、私は速い曲に餓えていた、ものの、しかしマンドリンで弾いて楽しいかどうかはわからない。
こんなことをせずに、この前にやっていて、とにかく音符を打ち込むだけは打ち込んだアルベニスの「タンゴ」の仕上げをやればいいのに、やらないで。


その後、とにかくデタラメに楽器を弾いていた。ドヴォルザークの「新世界より」の1楽章が最近のお気に入りだけれど、楽譜を見るわけでもなく、そのうちブラームス交響曲第1番の4楽章を記憶を頼りに弾く。
そのうち楽譜を見て弾きたくなって取り出したのは、芥川也寸志の「トリプティーク」。1楽章と2楽章、を、あのパート、このパートとスコアを見ながらなぞっていく。
なんという楽しさ。なぜこの曲が。
というのには私がこの曲を大学生の4年で弾いていること、パートがたったひとりしかいなかったことなどでけっこう定音の動きが頭に入っていて、その上でメロディーなんかを弾くと頭の中の合奏の再現度が高くなるからとも思われる。
また、速い曲に、餓えているなあ、やっぱり。


楽器をはじめて25年になるのは驚きだ。「トリプティーク」から20年以上経って、やっと少し上手くなってきた気がする。退化した部分ももちろんあるだろうけれど、良くなってきていることもある。最近ようやく小指が少しずつ使えるようになってきた。ただし、合奏の練習とかで、人と合わせると使えなくなるのだが、デタラメに弾いているときは使ってみる。
こまかい16分音符の半音階の動きや、装飾音的なもの、トリラーなんかも、少しずつそれらしく弾けるようになってきた。以前はそんなものを弾こうとも思わなかったのだから、そういう点では、やれば、以前よりは上手くなるだろう。


ふと、欲求不満について考える。
楽器を弾いている仲間、と、言って「お前などは仲間だと思っていない」と、言われそうな気はするものの、その仲間たちが飲み会などで話していることを思い出すと、いつも今練習している曲への不満が何より大きいのではないかと、ふと思った。そんなことばかり言う集まりもあるし、それを、はばかってか、言わない集まりもあるし、はばかるほうが普通だろう。が、心の中でくすぶっているに違いない。どこでも。
なぜそう思うかというと、「トリプティーク」を弾いてひとり楽しくなって、つまりはこの楽しさを味わうことがなかなか出来ないと言えばそういうことだろう、しかし、これはなかなか大変だ、こんなに楽しい曲は、弾いた覚えがない。
去年の夏に演奏会があって、そのトリの曲はかなり満足できる曲だった。「トリプティーク」にちょっと近い楽しさ。しかしそれは学生時代、卒業する頃に一番好きだった曲だ。さらに、学生時代に「トリプティーク」を弾いて楽しかったか、というと、他の曲のほうが楽しかったような気もする。なぜなら冒頭の部分が弾けないから。今も・・・。そして、今弾いて楽しいのは、他のパートを弾いているからであって、セロのパートだけだとそれほどでもないのだった。
これは、この欲求不満は解決できそうもないぞ。


などと思いながらそれをなんとかしようと、楽器の練習をしたり、楽譜を作ったりするが、しかし、私が合奏とかアンサンブルの場に戻れるかどうかは定かではない。
最近は、ふと、音楽も美術もやめたほうがいいのではないかと思うが、さすがにそれは自分がなんだかわからなくなるなあ、という気もする。
が、美術や音楽をやってきたことがまた、自分がなんだかわからなくなることに関係があるので、またややこしい。
などと、ここに書いていることを、上記の仲間のうちひとりか何人かが読む可能性がある、と、思いながら書いていることがまた、なかなかいやらしいなあ、私は、とも思う。

フォーレ ドリー組曲(連弾) (Zenーon piano library)

フォーレ ドリー組曲(連弾) (Zenーon piano library)