日本の政治と大衆

ブサヨ、という言葉をネットで見かける。
ことばを辿ると不細工な左翼ということのようであって、愛国にかみつく人を揶揄するために使われる、のでは、・・・とまでは単純化できないか。
安全保障に対する現実認識の甘さを持った、平和主義者だと自分で思っている夢想家に対する感情的な言葉ということばだとあてはまるだろうか。感情的、ではないというのか。馬鹿は馬鹿なのだから馬鹿だと行って何が悪いというようなメンタリティであろうけれど、馬鹿というのではなく、不細工というそのずらし方は、主張する言説が外見にまでも及ぶ、とまで想像せずにはいられないほどの嫌悪感につながる可能性をまで示唆せずにはいられない、という、なんというかそんな、共同幻想、いや幻想でなくてもかまわないのだけれど、何か一体感を持てる共通認識ということにしておこうか、そんな認識が共有できる、主にネットにおける漠然としたマス勢力が、イメージできる、なんてまだるっこい言い方を、してみましたというだけのことで。


そういうひとをネトウヨという呼び方でくくってみてもしょうがなく、一部は、あるいは多くは自分を右翼的だとは思っていないだろうし、しかし、彼らも多くは自ら批判する左翼的言辞以上に一貫した主張をするわけでもなく、しかし保守的ということは言えるだろうか。少なくとも彼らの自負としては。
ただし、それは守旧ということではなく、おそらく西洋語の翻訳語として保守政治というようなことばが日本で使われるようになった際に意識されたもとの西洋での使われ方の、ニュアンスのようなものが残っているのだろう。彼らが自覚するとせざるにかかわらず、その矜持というようなものが、何かあるつもりなのだろう。
何か正統というようなものが、ある程度超越的に存在することを、意識してかしないでか、しかし漠然と大切にしなければならないものとしてイメージされており、それを貶されることを嫌う、それはネトウヨと言ってもいいか。
いや、その正統意識が皇統や国旗、国歌等とつよく結びつく場合もあれば、吉田茂以来の戦後保守政治の伝統に結びつく場合もある。
私の場合は、どちらも不思議でありつつも、少しずつくらいは共感できなくもない。
国旗、国歌は、子どもの頃は好きだった。今はどちらかというとどうでもいいし、それをありがたいといわれてもなあ、という感じ。
皇族などに関しては、なんにしても、「天皇を中心として国がある」という意識が国を支えてきた・・・語弊があるなあ。国のまとまりを支えてきた、か、そうして生きてきた実際のひとびとの思いを軽んじるわけにはいかないとは思う。それと対になって、そういう意識を受け止めようとしてきた存在であった昭和天皇、平成天皇というふたりの人の言動から学ぶことはあり得るわけだし、敬意はないとは言えない。
と、書いた段階で、私もブサヨと呼ばれるかもしれず、なんとも得体が知れずにブサヨとかいう話にもならないと気味悪がられるかもしれず、実際の政策などに結びつく話でもないから顧みる何も書かれてはいないと思われるかもしれず、あとは戦後政治に関する軽薄な私の認識を表明してみようかという話だが、さて。


敗戦国であることや、連合国、特にイギリスとアメリカのこと・・・というのはフランスが左翼のメッカ(?)であったこともあったはずでもあり・・・を考えながら戦後政治のことを考えねばならないようだが、果たしてそんなことが可能か・・・最近民主党普天間飛行場の話がかまびすしいなかで日米安保が・・・しかし、この、安保というもの、もとは諸悪の根源のように考えるのが流行っていたのであって、沖縄のひとたちからするとあの時代やあの頃に本土で騒いでいたことをどう考えることが出来るのか・・・どうでもいいか・・・そもそも安保反対に関しては何の感想も、私は持てない・・・。
今の軽薄な愛国的主張に関しても、やはりうるさいという言葉くらいしか思いつかないが、しかしこんなことを書いたらブサヨなどという言葉を使う人たちとなんら変わらないのかなあ。


吉田茂という人は、良くやったのだろう。この上なく。
だからといってその衣鉢を継がねばならないのかね、ということもある。本当にそんなことが可能なのか、とか。
吉田茂は今の保守趣味の人たちのように先例から安易に答えを出そうとしていたのか、というか、しえたか。
あるいは彼を苦しめた無理解のようなことなく、物わかり良く理解ある国民たろうというのが保守なのか。
日米同盟は重要だろうさ。しかし、そのかたちをさぐった時代から、どう経過したのか。
半島有事の可能性などの認識がそもそも可能か、天変地異や金さんの健康のような偶発的要素のほうが情勢を左右しそうなときに金を使っている場合か、とか。
いま米軍再編にかかわって日本がどれだけ主体的にかかわるべきか、あるいはそうありえないのかということなど、国民はどのようにか考えることができるのか。
私はなるべく沖縄に暮らす人の立場で考えたいと思う、彼らは日本の国民として平等に基本的人権を享受しているのか、とか。
それを考えると鳩山首相が県内案しかやっぱり出来ないや、とふざけたことを話していることは当然のように認めるわけにはいかないにしても、県外、国外移転の可能性を一旦探ったということまで遡って、その件に関しては支持する。しょうがない。沖縄の人のことを考えるようには、本土の人もすこしはなっただろう。
自民党が国外なり県外案をあらためて自らの案として出したりして、それが可能になればその件に関して自民党を、しかし民主党が一旦以前の案を反故にしたこととセットで評価する。まあ、そんな仮定でそんな話をしてもしょうがないが。


なんかいずれにしても井の中の蛙がギャーギャー、しかし私も人のことは言えぬ。
しかし、タイトルが上手く付けられない。
そもそも、何を書こうとしていたのか忘れたし。