無能な人 5

憂鬱だ。
憂鬱でも普通の顔をして、普通のことをちゃんとやって生きていくのがあたりまえだと、そんなあたりまえの言葉が世の中にあるという事が、憂鬱を深める。
いちおうは、そのように考えることが悪いとも知っている。それは自己嫌悪のフィードバック・システムというか、ターボ・チャージャーというか・・・。
などと、こんなことを書いて人の読む可能性がある場所に置くことは、読む人に暗い気分を伝染させる点で悪いのだから、そんなことをする自分はおかしい。・・・と、これも、憂鬱が倍加する考え方。
そもそも私は憂鬱でなかったとしても普通のことをやって行けるのか、しかし、憂鬱だから、憂鬱から抜けられなくなって普通のことをやって行けなくなったんだったかな、そうだとしても、その始まりはわからない。
つまり、憂鬱な顔をできないから、憂鬱から抜けられなくなったのだということがわかる。暗い気持ちの時に、それを表現できる場が、なかったのだな。


と、書いてみたのは、全て今感じていることではない。
読んでしまった方、特に知人の方には申し訳ない。
(しかしこれも、思えば憂鬱の表現を知人に対して禁じる身振りだ。こんなことを書いてしまうことが意味するのは何だろう)
しかし全く嘘というわけでもなく、今日一日の間に感じていた憂鬱な気分の中で感じていてもほぼおかしくはない内容であって、いくつかはそんな感じのことを考えていた、が、思えば書くときには、考えていたことと何か違う形になってしまう。言葉というものはそういう点でほぼ半ばは間違っている。言葉にする、ということとは、なんだろう。
と、書いているのも違った意味で間違っているのだけれど、その間違っているというのは、言葉にするのは書きながらしているわけでもなく、一日何かと色々考えていたのも、言葉で考えていたのであり、その時点で言葉になっていて、言葉になっていたのはその時々の瞬間であって、それがまた意識の表舞台から一旦は隠れ去って、今憂鬱だと感じていたそのことを端緒に、再びその色々の中のいくつかの言葉とその言葉にまつわる事々との何か境目の曖昧な何かのまとまりが、糸を引っ張るとそこにどんどん何かがくっついてくる沼から何かを引き出すようなことが、今こうしている間に起こっているのだ。
と、思ったのだけれど、そんなことが起こったのは主にこの文の一段落目のことで、その次のこの段落でやっていることというのは、果たして何なんだろう。一段落目の思考がちょっと実態と違うと思ったことで、違う糸を、もしかしたら違う沼から引き出しはじめたということだろうか。
などということをいつまでも続けないことにしたほうがいいのか。



などと書いていたのは夕方。しかし今かなり推敲した。
夕方に書きながらうっすらと感じてはいたのだが、このような全てのことに深く関わっているのは、言葉だ。あとは、記憶。それと、時間。
しかしやはり、言葉というものが、特に気になる。今まで自明のものとして感じていたのとは、言葉というものはまったく違った様相で人間が生きていることに関わっているのではないか。
しかし、だから、何が、どうなのか、までは頭はまわっていない。


などということとは関係がなく、最初の段に戻る。
私は誰かというと、何かがきっかけで、とはいっても、そんなことが重なって、ということは必然的な何かを私が持っていて、しかし偶然も作用して、憂鬱な顔をすることができなくなっているのだろう。笑った覚えも薄い。実際には自分が笑っていることを知っている。普通におかしな事があれば笑う。が、それは・・・実感がないわけではないが、記憶としては事実だけが残って実感が薄い、の、か?
いや実際は憂鬱な顔もしているのだろうけれど、それは意味がないのだろう。私が憂鬱なことは、周囲の人間にとってはないことと同じになってしまう。
それは被害妄想かもしれず、事実かも知れない。しかしどちらであっても、同じ結果につながる。
このような落とし穴に落ちた人というのは、また、そういう人間の周囲の人というのは、どうすればいいのだろう。


ただし、これらの言葉が本当に私にあてはまっているのか、私に関係があるのかどうかすら、わからない。
何も意味がないようでもある。