「生きのびるためのデザイン」

心のどこかに引っかかっていた本。デザインとは・・・何だろう。
まず、まえがきの冒頭を引用してみる。ある意味この冒頭に立ちすくんだまま読み進められずに何年も経ってしまった、というところなのだ。


「多くの職業のうちには、インダストリアル・デザインよりも有害なものもあるにはあるが、その数は非常に少ない。たぶん、たったひとつの職業がいっそうといかがわしいものだといえよう。広告(アドヴァタイジング)デザインがそれである。多くの人を説き伏せて、手元に金がありもしないのに、もっぱら人目をひきたいという理由から要りもしない品物を買ってしまうように誘惑する職業などというものは、恐らくいまの世の中にある職業のうちで最もいかがわしいものだといえるだろう。 (略) ところが今日では、インダストリアル・デザインは、マス・プロダクションの上に立って殺人を行ってきている。毎年、世界中のおよそ何百万人もの人を殺したりかたわにするような、まさに犯罪的な危険な自動車をデザインしたり、なくならないようなくだらないものをつねに新たにつくり出して自然をめちゃくちゃにしたり、われわれの呼吸している空気を汚すような材料や生産工程を採用したりするなど、デザイナーは危険な人種となってきたのだ。」


このような発想を反体制的なものと見ることもあるかもしれない。単なる事実の描写とも言える。私は、後者で、この内容は全く正しいと思ってしまうのだった。
現代の資本主義経済下の(?)産業や流通の状況の大きな問題点をあっさりと浮き彫りにしているのだけれど、実は、デザイン的な姿勢で大量生産の状況をとらえようとするだけで、ふつうに出てきておかしくない考えでもある。このような考え方は、状況を客観視しなければできない。ふつうの消費社会でこんなことを考えるようには、なかなか育たない。私もそうだった。少なくとも子ども時代は。
実際に今も仕事をしている数多くのインダストリアル・デザイナーや、多くは広告を作っているだろうグラフィック・デザイナーたちの多くがこの本を読んだり、読まされたりしてきたのだろうと思うわけだが、結局はパパネックが指摘したとおりの業界で指摘したとおりの仕事を続けているのだろう。そのときにこの本を読んだことでちょっとした良心を持って、やりすぎないデザイナーを育てるということになることもあるかもしれないが、たいていはこんなものを思い出すわけには、少なくとも仕事を続けている間はいかないということになるのかもしれない。私はデザイナー養成コースではなく、教員養成コースで芸術家を目指すことしか考えなかった(というのも実は全く正確ではないが、少なくとも教員は積極的に目指していなかったし、目指すことを奨励もされなかった)ので、想像で書いているに過ぎない。が、いずれにしろ消費社会の現実の前で、こんな読書体験は苦い思い出のように心の隅にあるだけで、たまに取り出されたり、全く顧みられなかったりするのだろう。


などとまだるっこく書いてしまったが、私も結局ある意味デザインと言えなくもないという程度のものではあっても、広告分野の仕事をしてしまっているのだが、そんな私はパパネックのこの本を、またそれが正しいということを知っていながら続けることは、実は犯罪だと知りつつそれに手を貸しているようなものかもしれないという罪悪感を私自身が持っているからでもある。
パパネックの言うところの殺人自動車のファンだった小学生時代の過去もあり、当時インダストリアル・デザイナーの存在を知らなかっとはいえその職業にあこがれるような感性があったことは確かで、美しい工業製品への憧れた頃から、中学生時代からはグラフィック・デザインのようなものにも興味を持ち始めたり、そのあたりではデザイナーという存在を少しずつ認識し始め、その流れに加えて音楽、特にその訴求力の強い表現に興味を持ったこともあって視覚的な芸術分野と言える絵画や彫刻に興味を持つようになっていった、それで今のような私ができあがってしまったという過去を今更思い出したりもする。
私自身は有害な職業にあこがれて今に至るのだ。
未だに実は殺人自動車への愛を心の底に隠し持っていないわけではないと言えなくもなく、そうではないにしても、パパネックが考えているようなあり得べきデザインの行き方ではなく、感覚をどれだけ動かされるかという基準で様々な表現に、デザインの成果にさえも接しているようでもあり、実はしかしパパネック的基本を決して忘れるべきではないということも、この「生きのびるためのデザイン」をどれほども読み進めていないにしても心のどこかで忘れていなかったくらいには、意識し続けているのでもある。
・・・つまりは両極に引き裂かれているような状況にある。私の感じている、動けない、何も出来ない感じは、こんなことからではなく世事に疎いからというのが大きいのだろうけれど、こんなこととは無縁ではないとは思っている。


とはいえ、このような問題に限らず誰でも矛盾に直面し、それに答えを出して生きていくのだ、 なんて話をつい始めてしまったがデザインの話から外れる。こんなふうにこんなことでうじうじ考えるから何事もなんともならない、というような話もこの辺にしてデザインの話に戻る。
デザイン的なことをやっている、そうでないに関わらず、実はこの本の提起している問題は大量生産大量消費社会でどう行動していくかを問いかけるものでもある。読んでいないけれど、たぶんそうだ。
エコ、なんて言っている今やパパネックの提起が大々的に思い出されても良さそうで、大々的ではないにしても思い出されているだろうし、こんなエコ的な流行りと関係なく意識し続けられているのでもあろうし、なんてどうしてこんなまだるっこしい書き方になるのか、と思うけれど、そうだったとしてもしかしそうやって読まれていることと、この本の見据えている大きすぎる状況の流れとが共存していることが、どうにも納得のいかない空々しさを感じさせなくもない。ほとんどのデザイナーは、何者か。また、デザイナーと言うほどではないのにこんなことを書いている私は。
この本が正しいと思いつつも、この本に沿った行動などとても出来そうもない後ろめたさから、この本を読み進めていないという話にまた戻るのであった。
宙づりの意識。で、どうするか考えたくもない。
生きのびるためのデザインを実践していきたい、オルタナティブ・ムーブメントに親和しそうなラジカルな行き方をしたいような気もするが、できるわけもない。なぜだろう。自らの出自と上手く関連づけられないからでもある。美しいインダストリアル・デザインに憧れ関心を持ち続けてきたことと、自然にも人間にも合理的なデザインが矛盾するわけではないし、たとえばアップルコンピュータなんかはその対立を解消するような文化に近かったこともあったか、その可能性を示唆くらいはしていたこともあったようでもある。が、私に何が出来るというのか。
どちらにしても、私自身は身動きが取れない感じを覚えてしまうわけだけれど、それでも、まあ、近いうちにこの本をもう少しは読み進めたいと思っている、ということくらいしか書けないのだが、そんなことしか書けずに、ほとんど読んでいないのに書いているこの文章が終わるのだった。
この本を買ったのは、たぶん10〜15年くらい前だ。

生きのびるためのデザイン

生きのびるためのデザイン

(22時半頃に推敲しています)