ダメな僕 2

私は大きな失敗をした。
あるいは、大きな失敗をし続けている。ただし、目に見えないようなかたちでとんでもない失敗を続けてきたのであって、それを私は自覚できなかったと考えることも出来る。
ある程度見えるかたちでの大きな失敗が、ここ数年で3つ。
しかし、しかも、2つについてはいまだ帰趨がはっきりしない。
その失敗を社会は解決できるのか。そもそも失敗だったのか。
私の失敗だったのか、あるいは私に接してきた人たちの失敗だったのか、というとらえかたをしてみると、そう考えただけで私は無責任な人間であることになるかもしれない。
あるいは私がその解決にうごくことが、これから可能なものか。
解決と失敗は対にならない言葉だが。


とんでもなく大きな失敗とはたとえば日々の過ごし方。
多くは目に見えないというわけでもないが、日々の人との接し方であれば、目に見えにくい。と、いっても、客観的には瞭然なのかもしれない。それをよく指摘してくれる知人を持てなかったとすれば、私の大きな失敗だ、というような感じの話なのだろうか。
かわされる言葉の機微を読み取れ、と思うと、わがままにいこう、という者がある。それが対照的というわけではないが、確かに一理はあるものの、私がどういう役割を果たしているのかを考えてほしいものだ、と、思った途端に、おまえは役割など果たしてはいない、いなくてもいい人間だという声が聞こえる。


重要なことに関して正反対のことを言う人が現れることが多い。私に対して。
時にその人たち同士の会話がかみ合わないわけではない場合もある。
利害の対立する双方から正反対のことを言われるのは当然のようでもあり、そういうことがおこるのは、つまり反対のことを言いそうな人たちの双方と関わりを持つことが多いということだ。
ただし、それが無定見だからではないと思いたい。それは私の役割なのだ。と、さっき役割なんていう言葉を書いてしまった手前もあって思う。そうだ、それこそが・・・そうか? 本当に。
そうではなく、あるふたりが私に向かって話す内容同士が対立するのに、そのふたりは対立もせず、対立し合う内容を互いに話さないこともあり、それはいったいどういうことなのか。なめられているということか。


何か私には話をしてしまう、簡単に、ふつう人には言わないことを、なぜ私には言うのか、ということがある。
私に対しては気安く話せる、などということがあるとも思えない。
私という人間はいないのではないか。