モーツァルト 2

あたりまえだが、モーツァルトは優れている。
聴き慣れている曲はそれとして、何かあたりまえのように耳に、頭の中に鳴り響くが、知らなかった曲はそうは響かない。それらの曲の思いの外のバリエーションの豊かさ、何かラジカルな、過激だと言いたくなるような感じ、アルバン・ベルク・カルテットなんて20世紀の作曲家の名前を冠したグループによる演奏だと言うことがあるのかも知れないが、この人、モーツァルトはいったいどうしてこんな事をしたんだろう、などと思う。


ハイドンという人がいて、おかかえ音楽家から、後にその枠を出た人で、モーツァルトは彼とどちらの時代に出会ったかはわからないが、そのモーツァルトは貴族ではない市民、プルジョアというやつだろうか(違うかも知れない)のための、コンサートというもののための音楽を作った最初期の音楽家として、ハイドンとともに記憶される・・・なんて表現は合っているのだろうか。
ハイドンがイギリスに渡って大成功を収めた頃、モーツァルトは世を去っている。
そのことと、音楽の内容は、関係があるとも、あまりないとも、どちらとも言えるか・・・。


ハイドンはいまだによく知らない。
合奏仲間の間では、学生時代に「時計」交響曲のその時計と呼ばれるきっかけとなった楽章を編曲して演奏したことが、時々語りぐさになっている。たいくつだということだったか。
私は「驚愕」交響曲のあまりにあからさまな長調の3和音の主題を根拠に長らく軽蔑していた。単純で、ふざけているとさえ思っていた・・・ちょっと違うか。今はこの単純さに敬意を持っている。ちょっと、モンドリアンを思い出す。
ほかは、それほどよく知らない。疾風怒濤の時代の音楽とはどういうものだったのだろう。


モーツァルトの、弦楽四重奏曲に戻ると、演奏者のテンポが速いのかもしれないせいもあるのかもしれないが、なんかすごい。これは、優れていると思った。
しかし、このすごさは、なんだろう。
ハイドンにはあふれ出るアイデアの実現を楽しみ続けたようなイメージがある(曲はあまり知らないが、何かでエピソードをきいたんだろう)。モーツァルトもある意味そうだろう。
ハイドンソナタ形式を確立したひととしても知られている気がする。モーツァルトもそうだろうし、ベートーヴェンブラームスも発展継承したのだろう。ソナタ形式は、主題の展開、反復回帰を効果的に仕組む構成法で、和声の展開発展のルールみたいなものがあるのではないか。
それが決まっているためにそのルールの中、あるいはルールを発展させる中でより多くのバリエーション、可能性を追求する創造性の爆発的な発露があったというような印象があって、それを、優れている、と書いてみた・・・ちょっとちがうか。
実際には枠にはまった表現に過ぎないと聞こえたこともあった。今すごい創造力だと思っている走句も、以前の私の耳には形式的なスケールのくみあわせに過ぎないとしか聞き取れなかったかも知れない。整数、主に偶数の積み重ねによる楽節構造も、予定調和を感じさせすぎる。
しかしそれにしても、あやういような創造力の爆発現象が聞こえてくる、これはなんだというようなこと。


しかしとにかく、この古典派形式の作曲というものはなんなのだろう、という疑問のようなこともあって、また今日も聴くのだろう。
とはいえ、私もなんでこんなことをやってるのかよくわからない。