屋根にペンキを塗った 2

そういうようなことばかりを、していたいという気さえ、する。
畑を耕したり、家をなおしたり。
その延長として作品を作ったり音楽をしたりするのであればいいのだが、今の私の周囲にあり得る制作も演奏も何か、ちがうという感じがする。
とりあえず、誰かを批判したいわけではなく、と、書いてみる。うん、そんな気がしてきた。私の中の歯車がこわれているのだ。


ということと、微妙に違うがそういえば、学校で習うことも、同じように何かにせものであるという感じがしたものだ。これは、ちょっと批判したい。これは私が悪かったわけではないと思う。学校や先生や世の中や政治や文部科学省が悪いと言いたいわけではなく、とは書いてみるがとりあえず文部科学省がいいとは思えず、ということは政治や世の中もいいとは思えないが、さておき。
結局は後に体験学習などということがもてはやされることになることに関係はあるが、体験学習ではもしかしたらさらに始末が悪いことになるのか。理屈の上ですでに。
というような感じがしていて、そのうち「脱学校の社会」なんて本を、買ってしまった。ほとんど読めなかったが、10年以上も、まだ持っている。しばらく前に書棚の目立つところに動かしたものの、その後は開いていない。
そういう主張に共感できそうだというわけではなく、しかしそのくらいの発想はあって当然だと思っている。
もちろん学校をなくすことは現実的ではない。貨幣をなくすことが現実的ではないということと比較すると、それよりはかなり妥当性は高いものの、今の日本でさえ学校をなくすことは良い結果をもたらさないだろう。しかし、少しずつ何かを変えるべきではあるだろう。文部科学省管轄では民主党になって小学1、2年生で35人学級を実現しようとしているらしい(ちがったら申し訳ない。テレビのニュースの記憶が少しあいまい)が、それは出来ればいいとは思うものの、1、2年生だけでいいのかとか、それよりももっとドラスティックに変えた方がいいことがありそうだとも思う。教員養成システムはあまりに抽象的というか、現場と遊離している気もするが、ふと、現場主義でいいのかという気もした。その現場がそもそも、私にとっては何か、理想を建前とした仮想現実と利己的な個性が無政府状態になっている現実に分裂していたような気がするが、それはやはり私の特質として特殊な部分があったのだろうとは思うものの、もっとちがう現実があるべきだという感じを感じさせていた。いや、あるんだ。


とにかく何か上滑りしている感じがしていて、制作も音楽もやる気がしない。音楽はやらなくていいのでほっとしている。制作をなんとか現実的な形にしたいのだが、たとえばペンキ塗りのように、とまとめられるほどすっきりしていないが。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)