他愛もない

ということばがなぜかふとうかんだ。
一般的によくつかわれているのは、はりあいのないという意味に近いと思うが私がこのことばを思い出したのはとりとめもないとか、いやちがうな、ばかばかしいけれどすこしほほえましいというようなそんな意味で。



というタイトルとは全く関係が無く、当初書こうと思っていた事はチャイコフスキー交響曲第4番ヘ短調第2楽章のことで、ここ数日この曲が気に入っていて・・・数日といっても、もう1週間は少なくとも経ったような気がしていて、なにかというとこのメロディーが浮かんでくる。
最初から少し経った部分のメロディー、チェロがメロディーを弾いた後に弦楽が強奏で入ってくる部分の印象的な・・・どう表現していいかがわからないが、メランコリーというか哀切というか、そんなようなそうでないような部分をふと思い出して交響曲5番か4番だろうと探していって見つけた。
その探すというのがインターネットで落としたスコアを見てメロディーらしいパートを弾いてみるという仕方で、その弦楽の斉奏の部分の前の冒頭からまず弾いてみることになるのだけれど、その冒頭からオーボエとチェロで出てくるメロディーというのもなかなか良くて、アンダンティーノなのだけれど、このリズムは歩みのテンポ、行進のようではなく、何か思い悩みながら歩くようなテンポじゃないか、などということを考える。


チャイコフスキーが好きだなどということは自分でも考えてみなかったけれど、弦楽セレナーデやくるみ割り人形の魅力にはあらがえるわけがない。思えばピアノ協奏曲の面白さ、ヴァイオリン協奏曲ののびやかさ、などとたどってみるとあまたの天才作曲家たちと違った独特の近しさを感じていることにふと気付いて意外な感じがする。
モーツァルトの、あの有名な弦楽の小夜曲にも、あの作者が誰かいろいろとはっきりしなかったおもちゃの交響曲なんてものにも親しんできたのだけれど、それらの単調さに少し違和感を感じるようなところが、チャイコフスキーにはない。ヴェルディビゼーのオペラの旋律たちにも親しんではいる、が、ああまでうたいあげるようにしなくてもいいだろう、とか、グリーグは繊細すぎるし、バッハは近くもあるけれど限りなく遠くもある。
ドヴォルザークにも似た親しみを感じているようだけれど、より器楽的なセッションの楽しさをこちらには感じ始めている。チャイコフスキーにはもっと肉親のように親しんできたような気が最近今までになくしてきている。


と、いってもチャイコフスキー交響曲はどうも大げさすぎるというかこけおどしみたいなものを感じていて、第4番の最初と終わりの楽章なんて最たるものなのだけれど、2楽章のこれは何か面白い。3楽章は思い出せない。
オーボエで始まるこのメロディーの性格をどう言葉に出来るだろう。進んでは、立ち止まるリズム。のびやかさとは対極の、晦渋な・・・もっと違った言葉がないだろうか。憂鬱、物憂げなというくらいの・・・。
強奏に入って感情はほとばしり始めるようだけれど、その暗いというか内向的というか抑圧的というか、情熱的と言っていいのか、力がうちにこもった強さ・・・そんなメロディー。
それらの対比、実に見事なのだけれど、そういう事のみならず私と何か近いのではないかと思える。
やはりメランコリーなのだろうか。



などと書くとそんな憂鬱を気取っているようでなかなか嫌らしい。そんなつもりはないのだけれど。
今日たまたま2巻を買った黒田硫黄の「あたらしい朝」というマンガの1巻にあったセリフ、「あたらしい朝なんて来なければいいのに」が思い浮かんだものの、的外れな感じがする。2巻はこれから読む。

チャイコフスキー:交響曲第4番、他

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あたらしい朝(2)<完> (アフタヌーンKC)

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