日本の芸術・文化について 1

とりあえずはアイヌ文化について。
私の住んでいる地域は北海道でも最もアイヌの人が多く住んでいる、かつても多かった地域、あるいはそういう地域に隣接しているということを、今まで認識していなかった、のだ、私は。
簡単に書くと、私などが書いていい事かどうかにわかにはわからない、が、アイヌの人たちに対して日本人、あるいは和人は侵略行為、あるいは少なくともそれに近いことを行ってきたのであって、そしてそのことは認識してかしていないためか、和人にはいまだにアイヌ人を差別的に処遇していいと思っている人も多い、あるいは和人と比較して不遇な人も多い。
簡単に書こうと思って書けなかった。書いていいかどうかわからないというのは、こう書くことが状況を良くすることにつながるとは思えず、そうするとこれを読んで苦い感情にとらわれる人がいるかもしれないということだが、書いておかねばという感じもする。認識に間違っている部分もあるかもしれない。そうであれば指摘していただけると助かるが、それほどにこだわるほど私に影響力があるとも思えない。


いちおう民族という言葉を使ってはみるが、その言葉の意味が何かというと心許ない。人種などという言葉があるが、同じ人間だ。外見的な特徴に違いがあり、ある程度見分けることが出来る。言葉が違った。生活様式も違った。歴史を辿ると、違う地方からやってきたのだろう。あとは、文化が違うなどということが言えなくもない。
事実上アイヌの人たちの生活していた土地は日本(の国?)に占領されていった。自由にそれまでの暮らし方を続けることが許されなくなっていって、極めて困窮していた時期があった。観光ブームに潤った時期もあったかもしれないが、貧しいことが多かったはずだ。しかしそれを置いても何か他の日本人と違うその有りようは、どういうように言葉に出来るのだろう。


長い間うっすらと気になっていたアイヌの人たちのことというか、文化というか、そういうことに以前より関心が深まり、少しずつ調べ、とりあえずは、こんなことを書くことがどういう意味を持つかはわからないが、敬意を抱いている。今もある程度、言葉は失われても異文化の伝統を心に抱いている人が多いと、私は感じている。その事を認識できたことは幸運だったと感じている。アイヌ民族の存在をほとんど認識すらしない多くの日本国民よりは。


とにかくは、今アイヌの人も日本国民として暮らしている場合がほとんどだ。で、言葉はとりあえず日常語としては、残念ながら失われたと言っていいだろう。しかもそれは私の祖母が若い頃にはけっこうつかわれていたはずであり、つい最近の話だと言っていいだろう。伝承の試みはつづいている。が、いまもどんどん失われているだろう。
私が注目しているのは、たとえば、アイヌの文様。衣類に刺繍したりパッチワークのようにしたりして飾った。また、木などでつくられた日用品に彫られたりもしたようだが、発展したのは案外最近のことかもしれない。とはいえ、気になるのはいずれにしても生活の中にある種表現のようなものがとけ込んでいる有り様だ。




長々と書かなければならない羽目になってしまったのは日本人のほとんどがアイヌについて全くと言っていいほど無知、無関心であるからで、実はタイトルにあるとおり日本文化について書こうと思ったきっかけがアイヌ文化について考えたことだったのだが、そもそもがそのことについてちょっと書こうとしただけで、何か目の前にその無知の世界が拡がる感じで上のようなことを書いてしまう羽目になった。
という私が特に深くアイヌ文化に惹かれ、後にその伝承に協力していくというようなことになる予定も予感もないが、そういうひとがいてもおかしくはないと思ってはいる。そうなりうる人と、無関心の、中間にあたる私のような者は、何かできるだろうか、というような事を考えているが、それもまた別の話で、実は日本文化について考えた訳なのだけれど、つまりはアイヌ文化は失われようとしているかもしれないが、日本文化はすでに失われてしまったのではないか、というめまいに似たような連想をしたのだった。
日本人が歌っているのは西洋の音楽じゃないか。演歌とかも、もちろん。思考法も、日本人らしさなどというものが有るとも思えない。近代合理的思考のうわずみの薄っぺらい言葉の羅列、これには伝統も何もほとんど生きてはいないのではないか。
というようなことを、アイヌの人たちが今も模様を作るというようなことに心血を注ぐことが、日本人が日本文化をアクセサリーのようにしか考えていない有様より自然で活き活きしている、というようなことから思い付いたのだけれど、書いてみるとなんだか得体の知れないことになってしまった。