日本の芸術・文化について 5

仕事で文化財、景観、まちづくり、観光関係の講演会を傍聴・・・傍聴は変か。聴いてきました。
日本は植民地にされないために文化をあとまわしにしてきたとの、講師先生の御認識、ごもっとも。欧米に100年遅れているとか。そう単純ではないにしても、ある種妥当な御認識。
とりあえず有形を中心とした文化財、特に建造物や都市景観を中心として話題が進まざるを得ない、なぜなら講師先生の御専門だから・・・のだけれど、まあ、そればかりが文化だという御認識ではなくむしろ無形といえるようなことにも話が及ぶあたり、悪くない。というよりいろいろなことが相互に関連し合っているというような話の進み方であり、生活がキーワードになっていたし、人々がそこに暮らしていく中で変化していき、将来失われるかも知れないがより輝きを増す可能性もあるということは、ある種そらぞらしいけれど正論。そらぞらしいのは学者さんや行政が今まで散々やってきたことと、逆だろ、そんなふうにいきなり手のひらを返すようなことを言われても、という感じがしないでもないけれど、その講師先生一人に関してみたらずっと一貫した主張をされていたかも知れない。


とはいえ、脳裏に浮かぶのは明治以来日本の音楽が辿った経過。
日本の音楽がどこにあるかというと、人々の頭の中、生活の一こま一こまの中に、あるという表現がどれだけ妥当かはわからないが、そういうことで言えば明治以前と以後で激変。特に明治以前と太平洋戦争後では、ほぼ断絶の様相を呈していると言えるだろうと思うと、ことさら大げさに書いているようでもあるが、そうでもないだろう。
服装もそうだとは思うものの置いておいて。
テレビのニュースで江差追分を、老人会か何かで歌っている場面を見て、これは日本の音楽かなあ、と思ったのだけれど、つまり私たちがいつも聴いたり歌ったり演奏したりしている音楽というものは日本の音楽ではないと言っても過言ではないのではないかと、つまりは西洋の音楽に、日本の音楽の要素がこっそり、あるいはしたたかに混じっていなくはないものの、あらかた、たとえば伊福部昭の「日本狂詩曲」なんてタイトルの曲ですらも、あるいは日本の演歌なんて言われる流行歌なんかもおおむね西洋音楽で、単なる日本風味の、という程度ではないかということを考えた。
ある意味暗澹としてくる。が、それが合理的だったのかも知れない。いや、すると合理とはなんだっつうの。
また、そもそもそういう西洋音楽以外を聴くこと、接することは、今までの人生で聴いてきた、接してきた音楽の中にほとんど含まれていなかったという表現の仕方がこの種の事にはふさわしくない気がするものの、とにかくこどものころから私自身ほとんど日本の音楽を聴いてこなかった。北海道出身の私が聴いてきたソーラン節というものすら、西洋風に変形されたものであった気がする。あの、いかりや長助がいたドリフターズの番組で有名な盆踊り歌のようなものなんかが、民謡の一種だと思って育ってきて、そんなものさえ私の音楽体験の中でも和風が濃い部類で、さらにそんなものを聴くことすらどんどんなくなってきているようでもある。
そんなものが日本文化としての音楽なのか、それですらも日本の音楽文化と言うしかないようでもあるが。


文化財にあたっても良さそうな建築物がどんどん失われている、5年で20%だったか10%だったかがなくなっているという話も冒頭の講演会で聴いた。音楽はもう99%ないのであって、なんてことを思うが、建築物もそうか。ただ、こちらについては地域によっては多く残っていて、しかしそんな多く残っている古都でも先ほどのような速いペースで失われているという話でもあったようだが。
音楽も文化財として保護されているものだろうが。


アイヌ語が、生物でいう絶滅危惧種のように失われてかけているらしく、しかしムックリという口琴というようなものがあって、その音が鳴っただけで、アイヌの音楽の一部が甦るような感じがして、ちょっとショックを受けた。西洋音楽の音階に合わせて演奏できなくもないが、そうしてさえ三味線よりも西洋音楽から遠く感じられるのではないかと想像したり、ちょっとした面白い体験になる。
まあ、それは、そういうことで。


西洋と日本の音楽ということになると、武満徹さんという人と、小泉文夫さんという人をとりあえず思い出す。
アイヌ語が失われるのと平行して日本の音楽も失われ、アイヌ語が日常語としてほとんど話されなくなったように日本の音楽も保護された形でしか存在しない。というのは言い過ぎで、日本の音楽を伝承の意味だけではなく楽しむ人はいる。
話はそれた。特に武満徹さんが西洋と東洋の超克というようなことを考えていたとか考えていなかったとかいうようなことは、ときどき私の脳裏にも浮かぶ。


自分はなにやっているのだという話と、関係ないようだが、関係がないわけがなく、どうしようか、思案のしどころなのだ。

時間(とき)の園丁

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音楽  新潮文庫

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