なにもしてない 2

というほどでもないが、ほかにタイトルが思いつかない。


私は、自分で自分は頭がいいと思っている、というほど思ってはいないが、何か、その手の自信がある。行動に結びつかない頭の良さだ、と、書いては見たが、実際にはどうかわからない。お勉強が出来ても役に立たない類の、という気もしないではないが、ちょっと違う気がする。
とはいえ、実際にあまり役に立つ人間になってはいない。というほどではなく、いろいろなことは出来るし、活躍のようなことをしないでもないが、まあ、パッとしないには違いない。
いずれにしろ、世の中とかみ合っているわけではない。とは書いてみたものの、そうでもない気もしてくる。世の中とかみ合っている人なんて、どれほどいるか、あるいは、世の中が人間たちとかみ合っているかどうか。
なんにしても、これでも今まで好きなことばかりしてきたかもしれず、これからもそんなことしか出来ないかもしれない。ふと、どうしてみんなそんなに好きな事かどうかわからないことばかりしているのか、と、思ったりしたが、そういうものだと答えが返ってきそうだ。つまりは、私の方が妙なのであって、好きなことばかりやっているからそれが好きなように出来なくなってしまいながら来た、という言葉が思いつくものの、そうでもないか、と、思っているのは今たまたまそうなっているというだけなの事なのかもしれない。
人のために良かれと思い、西へ東へとかけずり回る。やっと見つけた優しさは、あっというまにしなびた。と、泉谷しげるのうたの一節をふと思い出したが、優しさを見つけないでもないし、さすがにあっというまにしなびたわけでもないが、信頼というようなものがわけのわからないことにすりかわってしまうようなことはないわけではない。
などということを書いている私そのものが怪しくないわけがなく、デヴィッド・ボウイの「クイック・サンド」を思いだす。自分を信じるな、信頼を裏切るな、というように覚えていた。あとのほうは、信念を持って欺くな、という直訳になるようだが、さて。流砂に飲み込まれ、逃れられないようなことは、あるが。


毎日120km、車を運転している。途中無料の高速道路区間を100km/hなんかで走っていると、これはおかしいなと思う。夜道を帰るときなどすれ違う大きなトラックがやはり高速で走っていて、あれが車線を飛び出してこちらへ向かってきたらどんな現象が起こるかを想像する。今日は冷静な気分で現実的な想像をしたけれど、それもまたおかしなことだ。相手がなくても、予定と違うことになることは、ちょっとしたことで実現される。クレーン車で6人を殺してしまったニュースが、大震災や原発事故のために話題になりにくいのだろうなという事を思う。と、同時に、未曾有の災害よりも日常に突如出現した悪夢の方がすでに生々しい感じがしてもいる。
自分を信用するな。


ともあれ、私も、今も被災し続けているひとたちのことはすでに忘れ始めている。阪神大震災の時よりも速く。
東京電力の人の記者会見は不愉快で、もうすでに何か自分はやることをやっているような感覚でいるのではないかと見える。ともすれば賞味期限を過ぎた食べものを売った人に似た感じを受けもする。彼らの領分はなんとか守るつもりらしい。しかし、私とどれほど違うのか。
また、原子力発電所の今後については、現状維持すべきだというひとが最も多いと、日本の世論調査に出ていたようで、新たな問題が生じる可能性は低いと判断し、現状の生活の維持を望む人たちが多数であるらしく、この国らしさがよくあらわれたのではないかと思う。原発の増設を望む人も含めると過半数に達する。これに東電のひとたちはどれほど心強く感じたことか。しかし、それほどのリスクを覚悟すべき豊かな生活なのだろうか。馬鹿なのだなあと思う。
福島から来た子供に近寄るなと言う子供を育てるような社会があるようであり、私も、その一員ではないと自信を持って言うことも出来ない。