原発と政治

自由民主党公明党みんなの党が東電と政府民主党の対応を批判し、不信任決議案(?)を提出すると息巻いているような様子をテレビで見た。息巻いているなどと書くとそのひとたちを批判する気マンマンのようだけれど、実際に批判する気なのだけれど、実際に息巻いているという感じがぴったり来るのでもある。
自由民主党政権下で原子力政策が推進維持されてきた時代が長いわけで、つまりは原子力政策そのものの評価は問題ではなく、その後の対応だけを話題にしようということのようで、とはいえ民主党が野党時代に原子力政策についてどういう対応をとってきたかについて私は知らないので、少なくとも容認していたようでもあり、だからしょうがないということなのか。
いずれにしても政界の大半は原子力発電を今後も継続することを選択することに、たとえ現在菅総理大臣が現在見直しを明言していても、結局は落ち着くだろうという目算のもとに動いていたり、東電首脳は自民党政権の方がやりやすいから取引をして問題解決をスムーズにできるという自信も含め、恣意的な国家運営を財界とともに取り戻そうという自信に基づいた行動ということかもしれない。
国民のための政治ということはとりあえずリアリズムでは、世論の操作に関して問題になるだけで、実際に考えないことが常套であり、それ以外は空想なのだろう。なにしろ政界の構成員は限られているのであり、それに連なる人もそうであり、基本的にそこから遠い人々を実質的な政治判断から遠ざけた方が丸く収まるのであり、なにも力を持たない人のことを顧慮することは絵空事なのも、政界の個々人が見ている風景がひとりのひとから見ることの出来る視界の限界として、認識はしなければならない、とか。


少なくとも安全対策をないがしろにしてきたこと、それもおそらく敢えて、であろうし、それはしかるべき事だったのだろう。
ある種の全体主義というかそんなことで、利己的な発想の人間集団であることをベースにしていて、様々な集団の力関係、問題の解決可能性や、犠牲になる人々とそうではないひとがいてそうではないひとの数が多数であることをたのみに権力のある集団の恣意で問題解決の手段を選択できる可能性の高さ、などのことで政治が動くのだろう。これからも。


誰と話していたのか忘れてしまったのだが、「私たちだっていい思いをしてきたのだから」ということを話した人がいて、私は反論する気しかなかったのだけれど、それを話していた人はそれを結論として納得するつもりしかないようであり、自分の説得力の限界を思い知らなければならないのかもしれず、その人と疎遠になることも考えられるが、そもそも誰と話していたかを忘れてしまっているので、いったいそれはどういうことなのか。


被災地の現状を見るのはうんざりだということは多くの人に共通した認識として共有されて日常の風景としての地上波テレビ放送はその認識に動かされ編成されるようであり、かつての日常の風景とはちがうものを見ているような気が私はしているものの、その私の認識はどこまで当を得ているかどうか。かつてのテレビはもっと素直だった気がするが、単なる幻想かもしれないけれど。
かつての阪神大震災の時には首脳のサボタージュのようなことが批判されただけで済んだけれどもこの度はそのようなことでは済まない。風景製造担当者とそのスポンサーの利益を共通に持つ集団が悪者にならないようにしなければならない。みずからの身を守る事が共感しあえる姿勢として共有され、そうして納得を形成することが出来る、という目算が、たってきている、のだろう。
報道の担当者でもあり、そのサボタージュのようなことはさすがにできないが、大多数の視聴者とスポンサーの利害が一致しているときに、ほかのどの選択肢を選べるというのか。仕事はするが、自分が困らない範囲にとどめよう。
そのことでひどく困窮し、生命や健康を著しく損なっていたり、今後損なう可能性があるひとたちのことを考えるのは、自分が不快な思いをしない範囲にとどめよう。と、ココロに思いはしなくても、そういうように行動は、できている。国民的に。


そんな国でいいのか、明日は我が身だぞ、とかいうことよりは、いい思いを自分がこれからもしていくことが大事だ、すこしは我慢するけれど、とか。
それで経済優先のこれからの政策構築は、若干の犠牲者を利益を満喫する人のために生み出すことで、より容易に、波風も最小限で、全体としてうまくいく、とか。


下は、懐かしい本で、学生時代周囲の人はけっこう読んでいたが、私は未読。

危険な話 チェルノブイリと日本の運命

危険な話 チェルノブイリと日本の運命