スティーブ・ジョブズ追悼

アップルコンピュータのユーザーは、日本では(も)揶揄される。
一応は私が印刷関係で仕事に就いた際に他のPCは選択肢としてほぼ考えられなかったのだが、それを話すのを遮られ馬鹿にされる。
そういうことで彼はすい臓癌になり、亡くなったんだろうと、人類はやはり愚かだなあ、と思う。
いやもちろん、ジョブズも私も愚かで、というとジョブズと自分を同一視しているかのようだがそうではなく・・・。
揶揄されるのはすかした人間だというようなことなのか、まあ、そうなのだろう。すかした愚かな人間なのだろう、私は。
印刷関係云々というのは言い訳といえばそうだ。Macintoshがなければそもそもコンピュータに興味を持つこともなく、そうであれば印刷会社に採用されることもなかっただろう。当時のPCはほぼすべて醜悪に見えた。今もあまり変わらないが。


とはいえ私はiMacにもiPodにもiPhoneにもiPadにも今のところほとんど興味はなく、ジョブズがアップルにいない頃に最もMacに心酔していたと言えなくもない。しかしまあ、彼がいなければあの洗練されたインターフェースも存在しなかったのだ。そんなことくらいはわかっていた。
癖がありすぎるらしい創業者が戻ってきたとき、今ほどアップルコンピュータが盛り返すことになるとは思っていなかった。さすがに世の中そんなにうまくは行かず、再び失脚するのがオチ、そうだとしても、さらにアップルがつぶれたとしてもアップルとマックの存在は、またジョブズの功績は歴史に残すべきものだろうというようなことは感じていた。


Macintoshのスローガンは、“The Computer For the Rest of Us.”だったらしいが、この言葉は何か痛々しさを持って響く。iPadがそのスローガンを実は継承しているようではあるにしても。
“Think Different”程度が無難で気楽な気もするが、まあ、こんなことを書いているからすかしているということになるのだろう。
ところで、“The Computer For the Rest of Us.”という言葉が出遭う世界は単に痛々しいだけではなく、創造的である。そういった知性の働き方とは縁遠いのは、Macユーザーでも同じであり、つまりすかしたことになるようだが、まあ、どうでもいいや。


MacがあったおかげでPCなんてものに熱中することになり、しかしそれはDOSやら98なんてものに熱中するのとは違った。単にビジュアリストであるだけにすぎない、私は、ということかもしれない。
“Rest of people”とでも言われたかもしれないアンチコンピュータな発想、テクノロジーへの憧憬から反発に変わっていた私が手のひらを返したかのようにならざるを得なかったことは良かったのか、悪かったのか。いまだにグラフィック、エディトリアルの世界・・・と格好いいようだが何か人が奴隷のように画面に仕える世界から抜け出すことが出来ずにいるのはそこへの楽しい入り口をMacが用意してくれたためだが、それはMacの本質と関わらないことは知っている。


ジョブズの追悼などと書きながら自分のことばかり書いた。もちろんスカした嫌なヤツ以外の何者でもない自分のことを。

スティーブ・ジョブズ 偉大なるクリエイティブ・ディレクターの軌跡

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Macintosh Museum

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