ビートルズのことなど 1

ラジオで聴いたのはジョン・レノンの「ウーマン」。その前はウイングスの「リブ・アンド・レット・ダイ」。
NHK-FM小林克也さんがやっている「とことんNo.2を考えてみたら?」という番組で。
次にかかったのはジョージ・ハリスンの「オール・ゾーズ・イヤーズ・アゴー」、で、感慨が波のようにおしよせる。などと、月並みな表現だ。



ジョン・レノンが殺されたことは、今も意味がわからない。現実だという感じがしない。
「ダブル・ファンタジー」が出たときに、何か不思議な感じがしていた。今聴くとそうでもないが、それまでのジョンの(という呼び方で書くことが私にふさわしいかどうかわからないが)音楽とは違う透明な感じが、当時の私にはしていた、と、あやふやな記憶の中にある。
それは特に「スターティング・オーバー」や「ウーマン」に関してだったかもしれない。
当時は「ウォッチング・ザ・ホイールズ」が好きだった。「ウーマン」の明快さは否定できないが、すっきりしすぎだろうという気がしていたはずだ。「スターティング・オーバー」は、もっとなんかしっくりこなかった。
そのうち自動車のテレビCMで、どこかの普通の幸せそうな人が「スターティング・オーバー」を歌っているものがあったと思うけれど、殺された、反体制的なロック・ミュージシャンの歌をそんなCMで、という脈絡の違和感を感じる以前に、この歌の素晴らしさだけが際だっていて、驚いた。もう、しっくりこないもなにもない。


今となっては、ジョンがいたことそのものが不思議だ。
その後の文化というものは(というくくりにいきなりなるのも我ながら妙だが)、まるでジョンがいなかったかのようにうつり変わっているという、妙な表現をしたくなってきた。
ビートルズも、ジョンの音楽も、あまり聴くことはない。好きなバンドは、XTC
時折ふとしたことで聴く機会がある。以前は「アンソロジー」なんてものが出て、そのときにはずいぶんあちこちで聴いたが、もう、今はそんなに聴くことはない。
けっこう前に、「イマジン」をマンドリン合奏でやった。それを取り上げたことや、それにたずさわったひとたちへの共感と感謝の念は今も強い(へんな表現だ)が、何か不思議な出来事だったという気がする。
そういえば、少し前にエミネムの「ライク・トイ・ソルジャーズ」を訳詞の朗読の後に聴いたときに、強い印象を受けたことを思い出したが、いや、だから、どうしたというのかな、私は。


あるいは、日本で生きているということが、関係あるのか。
佐野元春や、忌野清志郎を思い出したが、だからどうしたということでもないのか。


知性の働き方に極端な類型があり、他方は行政の現状の主流、他方はたとえばジョン・レノンであろう、とか、考えたものの、かなりの部分で的外れだろうとは思う。
たとえば原子力発電所の継続を画策する勢力をぼんやりとおもいうかべる。それはただ行政や産業の中枢にいる人たちではなく、原子力のことを考えることが可能な市民のほぼすべてが潜在的に荷担してさえいる、もちろん私も、というようなことを考えた。
私の中にはより大きく、少なくとも現状の延長上での原子力発電の継続は断念していくべき、それは単に安全対策をより確実性のあるものにしていくといった発想が加わったにしても認めることの出来ないようなもので、ラジカルなレベルでの変化が伴わなければ、あるいは少なくとも現時点に存在する程度の技術レベルで作られる原子力発電所はなんとかして運転を停止していくべきではないかという考えがある・・・とかいう、わけのわからない表現にする必要はなかったのかもしれないと今思っているが・・・端的に言うと原発反対の気持ちが大きいのではあるが、私も原発継続をすすめている一人でしかないというのも、現実だ。
・・・何を書いているのか。
惰性、というと価値づけが露骨だ。とにかく進んでしまっていることを、事実として受け容れなければならない。それだけではなく、そこから離れた視点も獲得したいが、それがただの言葉であるなら、何も変わらない。



などと、社会問題のはなしにつなげてしまうなど、何かいやらしい事のような気がする。
それれにしても、ジョン・レノンが、生きていたら・・・世界の色合いがこんなに濁らなかったのではないか、などと、またいやらしい表現を思いついてしまう。

ダブル・ファンタジー

ダブル・ファンタジー