近代西洋文化 6

認識の落とし穴みたいなものがある。
高度経済成長期の裏側には若い世代の反抗の歴史があった、なんて、忘れてしまった。
と、書いている自分に薄ら寒さを覚えつつも。


昨日のNHKの歌謡番組で梶芽衣子が『恨み節』を歌ったらしく、見たかったなあと思って、YouTubeで聴いて、中島みゆきの『うらみ・ます』や『世情』(長い間「施錠」だと思っていた)に行って、なぜかそこからいろいろ経過してモップスなんて聴いたりして、結果、上のようなことを思ったのだが。
『たどりついたらいつも雨降り』が吉田拓郎の曲だったなんて、知らなかった。


あれは、明るい時代だったのだろうか。
何か情報の一端だけをとらえ、良かったことのように思われることがあるのではないか。
とはいえ、むしろ反抗が輝くことが出来たようにも思え、今どうしてそうならないのかとも思う。
とはいえ私が反抗するわけにはいかない、反体制でないとも、そうだとも言えないし、反体制という体制が・・・若くないこの年齢で、反抗される対象であるくらいでなくてはならないような気もしつつ、実際に反抗されるどころか、吹けば飛ぶような。


思うのは今もまだ近代なのではないかということだ。現代などという新しい時代は来ていないのではないか。封建時代から近代国家が生まれたのが近代で、近代国家の帝国主義の時代から資本主義になったのが現代か。近代国家を乗り越えるまでは新しい時代が来ないのではないかという気もしつつ、様々なことがあたりまえのように近代国家を前提として語られていることがおかしいような気もしている。
もちろん、国家という社会単位のあり方をどうこう出来るものではなく、貨幣制度やら投資のしくみなども、どうすることもできない。私が出来ないという話ではなく、人類が、だという気がしつつ。


まあしかし、これは近代どころか、人類の歴史の間繰り返されている話が入ってきてしまっている。しかしそんな話にしてしまっては、誇大妄想のようでもある。
案外芸術とかそういうことに可能性があるのじゃないかという、学生時代に思っていたようなことをまた考えたりしているが、それは学生時代に買って、25年ほど経ってようやく今日読み終えたハーバート・リードの『芸術の意味』(また訳者あとがきが残っているが)の最後の部分に妙に動かされているためかもしれない。

梶芽衣子全曲集

梶芽衣子全曲集

モップス 2001 Millennium+1 BEST

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芸術の意味

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