アニメージュ初代編集長尾形さん、コミックマーケット準備会代表米沢さん追悼

日本初のアニメ専門誌「アニメージュ」が、徳間書店で創刊されたのは、「宇宙戦艦ヤマト」がブームになった1978年だったという。その、最初の編集長、尾形英夫さんが亡くなられた。73歳。

わたしがアニメファンになり「アニメージュ」などを読み始めたのはガンダムから数年後、83、4年頃だったろうか。その紙面で「風の谷のナウシカ」を初めて読んだときの衝撃は忘れられない。
当時は「おたく」という語が生まれはじめ、つまりはマンガ(アニメ)の登場人物に擬似恋愛感情を抱きさえする倒錯した人たちが登場し始めたということでまとめてしまうと「おたく」のひとの大部分は同意しながらも怒ったり反論したりするだろうが、なんとなく今回はそれでまとめつつ話を進めるのは、当時雨後の筍のように創刊されていたアニメ雑誌類の中で、その、今で言う「●え」要素が最も希薄で、ジャーナリスティックでアーティスティックな要素があるスタイリッシュでクリエイティブで、でもちょっと堅苦しく、かついろいろあって八方美人な雑誌が「アニメージュ」だったのだ。
ジブリの名物プロデューサー鈴木敏夫氏もこの「アニメージュ」出身だったか、「風の谷のナウシカ」の連載をはじめ宮崎ブームの先駆けを作り、後のジブリ高畑勲氏やかつての盟友(?)、名アニメーターの大塚康生氏など、東映動画出身、またその他アニメーションスタッフサイドの活き活きとした息吹を伝えたり、どちらかというと堅苦しい社会への関心の高い評論的内容を載せたり、でも、キャラクター中心のぬるい内容も多かったり、オリジネーターでありながら奇妙な雑誌であった。
ともあれ、今のアニメーションの状況を方向付けた大きな要素の一つに違いない。そんな、すごい雑誌であったこともあったような気がしなくもない。私は好きだった。
当時ロックファンで「ロッキング・オン」誌の愛読者だった私はなにか幼児退行を起こしてしまったような気持ちになったものでもあったが、「アニメージュ」はそういう自分への言い訳にも少しなった。「ロッキング・オン」誌が「FIRST IN ROCK JOURNALISM」なんてうたっていたが、「アニメージュ」はそれにならえば「FIRST IN "OTAKU" JOURNALISM」・・・。いずれにしろ、何かしっかりと芯が通った印象の背景に、編集長の尾形氏のプロ意識の高さがあったであろうと、勝手に思うわけだ。

先日、昨年10/1にはコミックマーケットコミケ)準備会代表を長く務めた、有限会社コミケット取締役社長でもあったらしい、マンガ評論家、米沢嘉博さんが53歳で亡くなられていたのだった。
私は同人誌文化に縁も関心も薄いものの、名前を何となく知っていただけの米沢氏のあまりに大きい存在であったであろうことを、亡くなられたときにふと、気付いて、何か書かねばと思いつつも忘れていたのだった。ずっと、あの、コミケの中心におられたとは・・・。全く遅ればせながら、まるでついでのようだが、そのようなことはないとおことわりさせていただきつつご冥福をお祈りさせていただきたい。

アニメージュ」には深く影響を受けつつも尾形氏というひとのことは、米沢氏と同様印象が強いわけではなかった。たしか徳間書店内で出世していったのではなかったかと思うが、そちらについては確かめる必要も感じない。
あの、私の人生に深く影響与えた「アニメージュ」の、草創を創られた方が亡くなられたことを記し、ご冥福をお祈りさせていただきたい。