「秀吉と利休」

秀吉と利休 (中公文庫)

秀吉と利休 (中公文庫)

野上彌生子さんは、1885年に生まれ、1985年に99歳で亡くなられるまで、現役の作家として活動を続けられた方。その歩みの中にはプロレタリア文学とのある程度の関わりもあるようで、私の現在の知識からは想像に難しい部分もあるように思える。しかし私が18の頃までご存命で、その頃まで透徹した目で社会、世界を見ていたことはエッセイからも伺える。ただ、私が読んだのはエッセイ集一冊と、今回漸くこの一冊。
この一冊は赤瀬川源平が脚本(の原案?)を書き、勅使河原宏が監督した映画の原作と言うことで知った。華道家でもあったこの監督も2001年に亡くなられていたとは。映画が89年などという以前に撮られたというのも、年をとるわけだという感慨がある。ついこの間のことのように思えるのだが。思えば私が大学を卒業した年だ。
作家としての野上彌生子氏は大江健三郎の書いたもので印象に残っていた。私の本棚のわりと目立つところにはあと、岩波文庫の「迷路」上下巻があり、これはずっと片づけないで居座っているものでもあるが、読むことはあるだろうか。

「秀吉と利休」は1962年から63年にかけて書かれたものだという。もうすでに70を超え、80に近づいてこの大作を完成させたわけだ。すでに当時のことばは今とさほど変わらなかったかもしれないが、さらっとして自然に読める文章には若々しさすら感じられ、そのことに驚かされる。
以前、読みかけていたことは覚えていた。2/3ほどのところにしおりが挟んであったがそんなに読んでいた覚えはない。せいぜい1/4くらいだろうと思っていたが、読み進める間にもっと読んでいたことが思い出される。読みたいものがふとなくなったので、なんとかこれを片付けなければならないかと思い立ち、最初から読み直したのだが。
文章の清々しさに促されて進むかも知れないと思われた読書はなかなかはかどらない。私自身様々なことがあった時期でもあったが、既に歴史の事実として知っている結末に加え、すでに読んでいた、山上宗二に死が近づくあたりの重苦しさはなかなか耐え難いことで、あるいは、一度目に読んだ時よりも遅々として進まなかったことには、その痛々しさを再度読むことの辛さがあったかも知れない。一度目はそのあたりで一旦止め、おそらく10年以上経っている。
それを越えても、待っているのは利休の切腹だ。大河ドラマなどで物語の隅に描かれることを見ることもあるが、実はさほど知られていないエピソードかも知れない。政治に茶道が絡むなど、しかもかなり深いかたちで、ということは歴史の一場面としては理解しにくいものなのだろう。芸術と権力の結びつきではルネサンスメディチとあまたの芸術家とのつながりが思い起こされるかも知れないが、そんなものとも違うようだ。私自身は映画で知ったのであって、利休という存在の底知れない感じがそれ以来頭から離れなかった。

思ったよりわかりやすく描かれるその筆致は、読み進めるうちに逆に読書の興を削がれる感じもした。紀三郎という架空の人物があらわれてわかりやすくなるものの、ジュブナイルを読まされるような感じもかすかだが覚える。後の世代に向けて書かれたのか、しかしそれが的確なのもわずかだが癪に障る。
秀吉の描写があまりにもわかりやすい。いかにもこの様であったと思えてしまう。利休もまた秀吉ほどではないが良く描かれ、しかし、ここまで見事に描かないでくれた方が良かったな、とも思った、が。

いずれにしても、現代の感覚ではある種不可解に近いこの、ふたつの死、そのうち古田織部もまた切腹の憂き目に遭うがそれはまた別のこととして、この死の苦さを心の中にごろっと置いておくために、読むべきものではあった。