金子光晴というひと

中学校の事を思い出せる人、また、中学校で教師を永らく続けた人は、合唱曲「若葉よ、来年は海へ行こう」の、元になった詩を書いた人というと、なんとか思い出せるかもしれない。
私が教師を辞めたあと、一番思い出す合唱曲はこの曲。体罰をすることがささやかれる、野球部で指導部の、しかし魅力的な担任のクラスの合唱ではなかったか。素晴らしい歌だった。私の聞いた最高の合唱。指導していた音楽の先生は、その一年後に、歯医者の麻酔がもとで、か、のどを詰まらせ亡くなった。その先生の片身の、メモ紙が目の前にある。

昨年、詩人が戦時中に妻と、息子と疎開地で書いた「三人」という手書きの(!)詩集が発見されたという。そのことを中心とした、NHK教育ETV特集
当時、喘息と偽装して息子を兵役から逃れさせ、そのことで息子は苦しんだらしい。戦争から逃げたようであり、戦後には勇気ある行動のようにとらえられたかもしれないが、あるいは、瘋癲老人のようにとらえられていたものだったのか。
私は高橋源一郎の小説の中に名前を見つけ(この小説家の奇妙な手法に実名がつかわれていた)、そのうちなにか異様な才能として少しだけ認識していただけだったが。
息子さんの詩が素晴らしく、世界を動かしているのは英雄ではなく、音楽だという。ただし、ラッパの音で、戦争へと導くのだ。
さらに、「若葉のうた」からの一節も番組で紹介された。自分のでたらめな人生は、こどもたちが道をあやまたないためだ、というような内容、そんな気持ちで生きたいと、思えるものだった。また、芸術家の矜持として共感できる。
そんな言葉に接したのは、しばらく振りだ・・・。
手元の文庫本の文学全集に、それは載っていない。
インタビューの映像も印象的だ。これから支配者の影響力が強まるが、それに対抗できるのは「個人」だという。その先は、忘れてしまったが。
現在に生きる私は、そんな言葉を、「重層的な非決定へ」じゃないけれど、忘れていたか。

しばらく自分が死んだように思っていたが、ちょっと息を吹き返した。

詩集 若葉のうた

詩集 若葉のうた