「フーコー入門」

フーコー入門 (ちくま新書)

フーコー入門 (ちくま新書)

数日前に一応読み終え、次はなぜか「フェミニズム入門」を読んでいる。そこに最も良く出てくる名前の一つがフーコーで、何かの符合を感じるが・・・。
「貨幣とは何だろうか」「宗祖ゾロアスター」につづく、ずいぶん以前に買ったちくま新書を読んでいる3册目。どれも面白いことにおどろいているが。

ミシェル・フーコーなどという、かつて流行していた思想家に関する本を読むなどということは考えていなかったはずだが、なぜかこれと「精神疾患とパーソナリティ」を買っていた。どうしてそんな本を買ったかは良く覚えていない。
たぶん買って7、8年くらい経って「精神疾患とパーソナリティ」を読み、それからまた2年くらい経って「フーコー入門」を読んだのだと思う。10年くらい前にこれも、「フェミニズム入門」も、買っていたのだと思うが・・・。

そもそも哲学とか思想というようなものに特別関心が高くはなかったと思う。
芸術論らしきことを書いているひととして、アドルノベンヤミンが学生時代からなんとなく気になっていて、「複製技術時代の芸術作品」など、何冊か読んだが・・・。このひとたちはなんとなく信用できる気がする。が、理解出来たかどうかも覚えていない。
むかし、そういえば、「ニューアカ」などと言って思想が流行ったことがあったようだ。「エピステーメー」なんていう雑誌があったな。ドゥルーズ=ガタリが最もすごそうで、ついつい「アンチ・オイディプス」なんて冊子を買って、さっぱりわからなかったのを覚えているが。「エピステーメー」というのはフーコーが使った言葉のようだが。
で、「フーコー入門」も、面白かったのだけれど忙しい頃に少しずつ読んでいて、忙しくなくなったら「フェミニズム入門」を読んでいるうちにだんだん忘れてきてしまっている。

「真理」ということのとらえかた、歴史記述の陥っている状況の分析の仕方・・・という言葉は適当ではないかも知れない。何か胸が透く思いをしたような気がする。
彼の思想は近代の絶望的な状況を指摘して絶望的になっているような時期があったが、晩年までに人が世界に積極的に関わることへの肯定的な可能性を示しているというようなことが、書いてあったようななかったような。

いわゆる「ポストモダン」の代表的な思想家のひとりのようだ。
私は最近まで「ポストモダン」の意味がさっぱりわかっていなかったような気がする。
私はモダニストだったのかも知れない。進歩的で、知性を信じ、合理的な発想が未来を改善していくようなイメージ。
そんな無邪気なことを言っていられるのは、私が戦後の「日本人」「だった」からだということがわかる。
戦後の欧州のたとえばドイツ人はここまで無邪気にはなれなかったのではないか。
日本は太平洋戦争の総括をアメリカにゆだねてしまい、非常に単純に「戦争は悪い」「平和はすばらしい」といったことのみを針の飛ぶレコードのようにくり返してきた。左翼の時代、その馬鹿げた残滓に空しさだけを味わわされた私達の世代、いずれにしても近代合理主義への批判的な態度には、それを自らのものとして引き受ける覚悟のようなものがなかったのではないか。
近代合理主義こそが、植民地政策を推進し、欧州に巨大な戦争をもたらし、ナチスを生み、原爆を落とし、共産主義の犠牲者を生み、現在世界の諸問題の加速を促す、「止めることの出来ない知的エンジン」に、なってしまっているのではないか。そのことに気付き、近代合理主義、モダニズムの次を模索するのがポストモダンであろうに。
ポストモダン」がなにかおしゃれなものかのような流行の仕方を示した日本と言う不思議な国を、とらえるのがちょっと難しくさえ思える・・・。
戦後、日本国民として戦争に積極的に加担しなかったことを、何か罪を背負わずに済んだと思っていては本質を見失ったままなのかも知れない。私も、今まさに貧困に苦しむ人、飢餓で苦しんで死んでいく人を殺している側の一人だということを認識せねばならないような気がするものの、こう書く自分も何か酔っぱらっているだけのような気もする。

そんな日本の楽天の裏側に張り付いた空虚な状況から想像がつかないような知の歴史との苦闘の記録でもあり、その困難の記録とさえ思えるが、その困難からの脱出、ペシミズムに陥らずに生きていく方法も、フーコーは示しているらしく、そのことでも興味深い。

私にとっては、精神的な危機の理由の一つを解きあかしてもらったようでもある。そして、世界に関わる可能性も照らしているようだ、が、フーコーを読まずば解決されない悩みを抱えた日本の貧乏人というのは、いったいどういうことなのだろう。