「フェミニズム入門」

フェミニズム入門 (ちくま新書 (062))

フェミニズム入門 (ちくま新書 (062))

私の知っている女性は、男性(当然私を含む)よりも良く働き、思考に無駄がないひとが多い。
男には良く働く人もいるが、つまらない思い込みに寄り掛かって自動的に機械化して働いているひとが多い。
その他諸々。


フェミニズムへの通俗的なイメージはほとんど現実をとらえていない。
そもそも「フェミニズムとはこんな感じのもの」という一元的なとらえかたが不可能であるような状況にあり、それはフェミニズムがなぜ生まれ、続いているかということを考えると、必然的にそうならざるを得ないことのようでもある。

特に一神教的な、二元的にものごとをとらえる思考習慣が、実は近代合理主義の理性の裏にべったりとくっついているものであり、その一神教の神が男性的であり、絶対的であり、何かが善で反対(反対的な存在が必ずしもあると考えてしまいがちなことも大きな誤謬のもとなのだが)は悪であること、何より権力的であること・・・ナザレのイエスがどう意図したかはともかく、実際にはその絶対性によって権力に利用され続けていることは自明である・・・。
女性に対する抑圧的な状況を解明することの困難さ、それは自らの思考習慣の中にすら抑圧的なものを発見していくことであり、自己解体のような状況でもある。自明であると考えられている思考習慣の解体は自らの足下をあやうくするような困難な作業である。

日本の多元的な宗教、思想的(無思想的)状況からすると、さらに状況は複雑で、日本は一神教の国と違ってもともと多神教で多元的な価値観を許容するのであって、西洋的な女性に対する抑圧は存在しないとか・・・そんなことは全くないのは火を見るより明らかなのだが・・・。
現在の日本の生活習慣全般に西洋的な「ニューファミリー」のイメージがいつからか浸透し、その理想的なイメージこそが日本の家庭、家族構築を困難にしている部分があり、そのイメージでも女性の役割分担が明確になっている。
専業主婦などというものの理想的な状況が収入が豊かな層でしか成立しにくいとか、そういう収入の違う層同士で互いに批難しあい、理解しあうことが難しくなっているという状況もあり・・・。
日本の戦前の女性運動の先鋭的な立場にあった人たちが先頭に立って戦争を合理化していた、という事実はあまり知られていないようだが、これも多様な価値観を許容するなかで生まれた状況だとも言える。


近頃フーコーの手並みに感心したばかりなのだが、フェミニズムの視点にも、現代の包括的な問題、格差拡大を伴う社会と自然への破壊が進行している状況、様々な立場のひとびとの知性にそれぞれ違った隠ぺいが何重にもかけられてしまっている状況、特に権力的な立場にある人が自ら抑圧的な状況にあるという自覚をはく奪されてしまっている状況など・・・。そのような状況を解明する鋭いメスの役割を期待出来るのではないか、と考えた。

これは1996年、12年前の本なのだが、ここで紹介されているクラウディア・フォン・ヴェルホーフというひとは1988年に書いた著書の中で、資本主義のより苛烈な段階への移行を予見している。20年前のこの予想は現実化しているように思える。
フェミニズムの抱えている現代的な課題の大きなものの一つは、女性の労働が男性にくらべ厳しいこと、さらに、それに対する報酬が少ないこと、これは以前から気になっていたことではあったが、パート労働への報酬の少なさは尋常ではないと考えられる。
現在はパート労働の増加に伴い、男女平等が進行し、双方共に搾取が進む状況が進行しているのであるが、それを主婦労働に加えたパート労働という雇用体系があらかじめ準備していたことになるかもしれず・・・ということをフェミニズムのひとが言っているわけではなかったな。機会があったらこのあたりを何度か読み直してみた方がいいか・・・。

私が読んでみたい本のなかに「脱学校の社会」など、イリイチの著作があるのだけれど、イリイチに関してはフェミニズムの視点から批判されている部分があるようだ。「シャドウ・ワーク」をあぶり出すという視点はかなり有益だと思えたので意外だが、イリイチを読む時(そんな気力が持てるかどうか分からないが)には少し気をつけよう。


「私は」フェミニズムの立場、そこで行われている諸議論を重視したい。
しかし、ここにはかなり深い問題がある。
権力は男性が握っているというようなイメージ。これは、実際に男性が大統領であるとかいうことが問題なのではない。
女性であっても権力を他者に対して行使しようとすること、あるいは服従しようとすることの連鎖がコミュニケーションの大きな部分を占めてしまう。
そのことに対しても、有効なツールとしてフェミニズム程のものはないかもしれないと思えるのだが、実はこのコミュニケーションの連鎖に再び逃げ込んでしまう罠にも、フェミニズムはどうやら何度も陥ってしまっているらしい。
権力を強化する方向に女性が(あるいは男性も)奉仕しはじめてしまい・・・一局面では社会を改善しさえしながら、その裏で新たな抑圧の形態をつくってしまっているような・・・。

ちょっとまたぞろ循環思考に陥ってきたようだけれど・・・この「フェミニズム入門」の大越愛子さんの記述はそれを回避することに成功しているようであり、その点でも興味深かった。


セクシュアリティの問題、これは自分が平等の原理に従って行動していると考えたいあまり、逆に無視してしまう傾向が、もしかしたら女性にも男性にもあるかもしれない。フェミニズムについて考えることは、このことについて思い出させもする。
実際は、セクシュアリティの問題を、この社会は個人に常に突き付け、さらにそうしていないような建て前になっているのだ。