病んだ魂と絵

変な事を考えた。
自分の頭の中の様々な思考のからみあいがうまく行かない、と、思い、続いて、その事が、絵を描いていてスランプに陥ったときに何か似ている、というように連想した。


良く考えてみると、絵に含まれる要素は「様々な思考」の一片、あるいは「ひとつの」複合体に近いものであって、実際の思考領域(?)のように複雑多様でない。が、「ある世界」の断片のようでもあり、その複合体のなかの要素は、頭の中の思考ほど容易に組み換える事はできないものの、恣意的に作り変えることができるものだ。
絵の、今まで描いてきた痕跡は現段階では決定的で、止めてしまうとそれで決定されるものだ。ただ、描き続けられている間は思考と同じように流動的だ。逆に、思考も、止めてしまうと決定的になってしまう。
いや、絵の場合は上から塗りつぶしてしまえば消し去る事ができるが、なにかにこだわってしまうと、その思念を消し去る事はできず、絵よりも容易に行かないことになる。
さらに、変わらぬ言葉で考え続けている事も、その他の状況の変化で違った意味を持ってきてしまう。その相対性も、絵のある部分を変えなくても、そのほかの部分を描き変えていく事によって意味が変わってきてしまう点に似ている。
意味?
あまりに相対的に考え過ぎているような気もしてきた。


私がこの連想に至ったときにふとうかんだのは、絵の前でその作者に「これは取ってしまった方がいい」と話している「センセイ」の姿であって、それが至適だとしても、それはいったい・・・。
いや、思考にてらしていうなら、誰かの一言で考えがスムーズに行くのであれば・・・。


さらに、現代の即興的な絵か、絵画教室で試行錯誤するひとたちでなければそんなことにはならないのかもしれないとも考えた。当初の構想に従って計画的に描かれる絵画というものの方が多い気がしてきた。
私の最近の作品、彫刻は、バランス等のある種細部以外はあらかじめ決定されたアイデアの下で作成することが多いから、上記のアナロジーはあてはまらない・・・。いや、そうじゃないか。相対的な考え方というか・・・。
絵を描いていたときは、オートマティズムを気取っていたわけではないが、そういう事が多かった・・・。