「作ると考える」

作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)

作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)

講談社現代新書
ベンヤミンへの関心から辿りついた今村仁司氏の著作。「貨幣とはなんだろうか」とちがった、より総合的な知の見取り図を得られる。

長い間生きている、と、いっても、40などまだひよっこだという考え方もあるのだろうけれど、変転の激しい世の中でそれなりのことは知らざるを得なかった。
第二次世界大戦は人類未曾有の経験であり、それで反省してもいいはずの人類が、いくつかの共産主義国で極端な政策(?)の結果膨大な犠牲者を生んだことも、自然環境とのかかわり・・・それとも関わるが「経済」問題で破壊的なかたちで勝者と敗者をつくる・・・勝者は精神を自ら破壊し、敗者は生命を破壊されるというかたちの・・・「格差」問題という言葉が実情をあらわしきれないような・・・現在の迷走する世界情勢も・・・全人類的を包括する知性を持とうとすれば「自虐的」になるほうがまともなのかもしれないというような気にさせるものだ。
なんでそんなことになっているのか知りたくなるのが人情。そんな欲求に応えてくれた。

ずっと以前から言われていた事であって、この本も18年前に出たものであって、ここで書かれている事は、ある種乱暴な言葉を使えば「近代理性批判」? しかし、そんなかたちで乱暴に要約しようとするような知性のありかたも、近現代の知的習慣にのっとったものに過ぎず、そんなことを今村氏がこの新書でやっているわけではない。

変な話だが、この著作でキーワードになっている「作る」ということばを、私はこの本で使われているように使った事は一度もないと考えている。ある西洋のことばからのおきかえというわけでもないと思える。実際の日本語のプリミティブな意味の「作る」言葉ではない。物質をもちいて何かを作るように概念を生み出す知性の働きをここでは問題にしているようだ。ある種アクロバティックな論考。

で、ここでもまた私はベンヤミンに出会い、フーコーにも出会い、そんなひとたちと、そのひとたちを生んだ西洋、その近代的発想がいまだに原動力となっている人類の知的気象状況とはどういうものかと考えたりもした。


読んでからけっこう経って、漠然とした印象だけで書いてしまった。