「荘子 古代中国の実存主義」

荘子―古代中国の実存主義 (中公新書 (36))

荘子―古代中国の実存主義 (中公新書 (36))

荘子に関する中公新書のこの本は18年前の版なので、その頃かその少しあとに買ったのだろう。少し読んで読みにくい感じがして放っておいたはずで、読む事になるとは思わなかったのだが、この度本の山から引っ張り出され、一月以上かけて読まれることになった。その49版が出たのは1990年だが、初版は64年。私のうまれる2年前、44年前の本で、著者の福永光司さんは日本での老荘思想道教研究の第一人者であったひとらしい。2001年に、83才で亡くなられているようだ。

初心者向けのこの新書でも読むのが辛かったのは、私の読解力のみならず、なにか明らかな図式のような事が書かれている感じがしたためであったと思う。荘子が「実存主義」というのは、その実存主義にすら興味がなかったためもあって興味もひかず、荘子そのものには興味があったものの・・・なぜだったろう・・・ユングとかそちらの関係からの感心だったか・・・荘子に対して持っていた自在なイメージとある意味逆の雰囲気でこの本は始まった。

人生は辛いものなのだ。そんなはずはないと思っていた。気の持ち様だ、とか。確かに気の持ち様だ。ただ、一昨年から簡単にそうできなくなってしまった。生きている事が辛くなった。
そんな時に、荘子が当時の中国の無茶苦茶な政治状況、極限状況の下での生活の中であの著作に至ったというようなエピソードをこの本で読む事が、かつてとは逆に説得力を持ってきた。
数年前から様々な国の事に少しだけだが関心を持ってきた。実際に行きもせずに語るのは軽卒かも知れないが、たとえばコンゴ共和国で、現在私と同じ年令の人はどういう環境で生き延びたのか、考えてみる。長く激しい内線下で、どういう生き方がありえたのだろう。そして、世界をどう見ているのか。そして、そんな視点を想像する事を、北半球の人たちはどれだけするだろうか。荘子の時代の環境とどう違うのか。
逆に、人類史上最も豊かで幸福な、よくできている国かも知れない現在の日本の片隅にへばりついて、生きている事が辛いというのはなんということだろう。そして、私の人生は多くの人からして、全然辛いうちには入らないはずだとも思うんだが、なぜ私は辛い辛いと思っていたのか。

と、いうようなことに関係がある事が書いてあったと思うが、読み終わってちょっとしたうちに忘れてしまった。
でも、そういえば、これを読みながら、最近今村仁司氏の著作を読んで近代(西洋)の「合理的な」態度への批判(?)的な考え方などに共感していたが、そんなことはここに全てあるという感じがしてちょっとびっくりした感じもする。荘子が2000年以上前に人間の、社会の陥りやすい罠から抜け出す術に思いをめぐらしていた、それと同じ罠に現代人もまたすっぽりはまってしまっている気さえする。
そしてまた、私もその罠から抜け出す事がなかなかできずにもがいているのだが。

と、散々まわりみちをしてこの本に戻ると・・・著者の福永さんは太平洋戦争の戦場の石油ランプの下で「荘子」を読んだらしい。戦中の状況に不条理を感じていたことに「荘子」でなんとか対処したのだろうか。そのためか、この新書も不条理な人間が生きる事、歴史に多くを割いている。
この本のあとがきから引用「人間というものの暗さや惨じめさ崩れやすさ……、総じて人間存在の下限ばかりを問題にし過ぎるではないかという非難も当然予想されるであろう。しかし、私はそのように非難できる人々は幸せであると思う。そして、荘子の言い方を借りれば、そのようなしあわせな人間は現実社会には少なくて、大多数の人間は人間というものの暗さや惨めさや崩れやすさの中で日常をのたうっているのである」だからこの著作を書いた、そのことの切実さが胸をうつ。
わたしはしあわせな人間であったのが、大多数のひとりになったのか、ならばそれはそれでよし。