マンドリン合奏でやってみたい曲4

どうもこのタイトルでの日記は病んでいる。
実際に病んでいる実感はどんどん薄れているのだけれど、ミクシィやブログではどんどん病んでいく、それであればここで病むのは回復の経過か! などと都合のいいことがあるわけがない。


さっきは、YMOをいきなり思い出した。何年か前だったか、「ライディーン」が烏龍茶のCFで使われていて、東洋アコースティック的演奏にけっこう心惹かれるものがあったのだけれど・・・今日思い出したのは・・・「テクノポリス」。
やりたいというか、マンドリンアンサンブルにこれほど合わない曲はないかも知れないとも思え、しかしかつてはYMOの曲の中ではそれほど好きではなかったこの曲が今は妙に懐かしく、なぜか無機質を装ったはずのこの曲が心温まるような感じで思い出されるのは、単にこの世の不条理をあまり知らない頃によく聞いたというだけの理由だろうか? こんなにこの曲が好ましく思えるのは、30年くらい経った今が初めてだ。変な感じだが。


というタイトルとは関係がない内容に続いて、タイトル通りの病んでいる欲求、それは、芥川也寸志作曲「弦楽合奏のためのトリプティーク」! 以前と相変わらず弾けるわけもないのだけれど、以前と違った感じで曲がわかってきたように思える。そして、セロ(チェロ)以外の音がなぜか今になって記憶によみがえってきて、以前はCDをかなり繰り返し聞いたことも今更思い出す。最近ポケットスコアを店頭で見かけた気がしたけれど気のせいだったか。気のせいでなければ是非買いたい。セロでほかのパートを弾くのだ。
という私のポケットスコア病、弦楽合奏に関して病が深い。すこしは意味があったのがチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。私の卒業後に後輩がこの中の「ワルツ」をやった。少しはそのきっかけになっていたかもしれない。この曲は大好きだ。
その後レスピーギの「リュートのための古代舞曲とアリア第三組曲」、やりたいというか、いい曲だなあ。ドヴォルザークの「弦楽セレナーデ」(これはなくしてしまった! もっとも高かったのに!)。この曲は一時期もっとも好きなクラシックの曲だった。ついにバルトークの「弦楽合奏のためのディベルティメント」、そして、極めつけは武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。なんでこんなものまで買ったのか。しかし、どれも時々取り出して、ちょっとだけ音をひろってみる。弾いてみていちばんイメージが沸かないのがバルトークで、これは単に「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」のほうがかなり好きなためで、しかしこの楽譜も買ったのに無くした。高い楽譜が妙になくなる。
関係ないけれど、ストラヴィンスキーの「火の鳥」1919年版とかも、いつか買ったのだが見あたらない。これはなぜか安めだったのだけれど。どこに行ったんだろう。バルトークの「オケコン」が出てきた。ちょっと音をひろってみた。楽しい!
と、言うようなものを買ったのはすべて10年以上、15年くらい前までの話で、10年ちょっと前からはアンサンブルを始めたこともあってか、大編成の楽譜は買わなくなった。
しかしその傾向は近年ふたたび蘇り、最近は去年か一昨年エルガーの「弦楽セレナーデ」と、グリーグの「2つの悲しい旋律」を買ってしまった。エルガーは札響で聴いたかな。グリーグはテレビで聴いた。いいなあ、弦楽。
今気付くと、ヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」も数年前に買っていた。そして、これも弦楽合奏で、大好きな曲だ。
でもマンドリンも好きだ。私は音色の違いよりもコンポジションや旋律が面白いものを好むので、楽譜が大好きだ。聴くより弾く方が面白い。下手の横好き!


などとあまり人に話さずこっそりひとりでコツコツやっていたのは、いったい何だったのだろう。10年も続いている仲間がいるのに。
今になってたががはずれて恥も外聞もなくこんなところに書いているのは、そのひきこもった趣味の怨念がどうにもとまらなくなるような場所に引っ張り出されても怨念を必死で押さえ込んでいて、しかし耐えきれなくなり、そのデモーニッシュな怨念がついに私の自我を食ってしまったのかもしれない。

武満徹:ノヴェンバー・ステップス

武満徹:ノヴェンバー・ステップス