マンドリン合奏でやってみたい曲5

ラジオでブルースのような曲をやっていた。ネットで曲を調べられる。
「LITTLE WING」という曲を、デレク&ドミノスのやったものと、スティーヴィー・レイ・ボーンのものだったようだ。いいな、ブルースギター。


なぜ音楽を続けているのかよくわからないと、ときどき思うのだけれど、ひとといっしょに楽器を弾くのは楽しいもので、何か生きているだけで意味もなく苦しいような感じから逃れられる。しかし、そんな治療のために合奏の場に出向くような人間は毒のようなものを持っていて、ふつうのひとが楽しむ邪魔になるのではないか。
以前指揮者をやっていたときにはちょうど逆に、何か苦しい人がいるなら合奏の場で少しは救われないか、そのための場を維持するためなら若干の苦労なら厭わない、という頭は持っていた。何が悪かったのか、自分が苦しい人になった。

でも、たぶん、こんなものなのだろう、人生は。
困ったことは、たぶん、成功した人生のイメージに近い人が私の近くに多いことで、なにかそのあたりまえさにうんざりする感じがある。そろそろどこかに消えてしまいたい気がする。「おまえの人生は間違っている、失敗だ」と、言われ続けている気がする。美術をやったり音楽をやったりしながらこっそり生きて画一的な発想から離れていたのだが、ちょっとひとの前に出ると、なんかそういう常識的なものがまとわりついてくる気もする。
そういうものを振り切る力が芸術にはあると思うのだが、私は力不足なのだろう。

でもまあ楽器を弾くのは楽しいのだけれど。しかし何か常に満たされないものがまとわりつくようになった。


今日取り憑かれかけているのはラヴェル弦楽四重奏曲。ほんの数小節だけパソコンで音符をひろってみた。この先には16分音符が出てきて、そこに行ったらたぶんみんな弾けないとは思うものの、その前の部分の数小節でもつくりの確かさが感じ取れ、ふだん私たちがやっているマンドリンオリジナル曲というのはなんという出来損ないなのかという感じが逆にしてくるのが困ったことだ。
そういえばチャイコフスキー弦楽四重奏曲の、あの有名な「アンダンテ・カンタービレ」の楽章だけをやったことが何度かある。これはうまくはいかないものの、なんとかみんな楽譜を追うことが出来る。これにも無駄なものはない。
四声というものはなにか非常に安定したもののようで、これは四部合唱なり四重唱との関わり、西洋音楽の骨格のようなものと関係があるのかと思ったがそうだったからといって、だからどうしたというものか。
好きなのはバルトーク弦楽四重奏曲。三曲くらい楽譜を持っていた気がするのだけれど今手元にあるのは一番のみ。これは楽譜が安かったから持っているんです。四番、五番といった超名曲、久しく聴いていないなあ。
モーツァルト交響曲の最後、41番、「ジュピター」と言われる曲の、特に最終楽章が好きで、弦楽四重奏曲の中にそれと似ている曲があるのを知って、ポケットスコアを買ってきて拡大コピーしてパート譜を作ってやってみたが、すこぶる評判が悪かった。モーツァルトは全般に受けが悪い。
連想が弦楽四重奏曲から離れ始めた。モーツァルトの「トルコ行進曲付き」のピアノソナタの第一楽章の変奏曲が好きで、あれを誰か編曲してくれないかと思ったが、弾けないか。この曲はグールドのディスクで好きになった。
さらに妄想する先にたどり着くのは、バッハの「無伴奏バイオリンのためのパルティータ」第二番のなかの「シャコンヌ」。これには多くの編曲があるだろうし、日本では齋藤秀雄さんの編曲した弦楽合奏版がけっこう知られているはずであり、どんな楽器でやってもいいに違いないと思うが単なる妄想かも知れない。この曲は、「カバティーナ」(「ディア・ハンター」のあの曲とは違う)が有名なJ.J.ラフというひとも編曲しているらしく、スラットキン指揮のディスクもあるらしい。
さらに妄想する先・・・サティの「天国の英雄的な門への前奏曲」を何度か5パートとかにバラそうとしてきた。10年ほど前に鉛筆で途中まで書いたものもあり、今もパソコンで数小節手をつけている。そもそもこの曲に小節はないのだが、勝手に変拍子にしてしまっている。サティは「プリマ・メヌエット」がきれいな4声なので、それを4パートにバラして出してみたが、すこぶる評判が悪かった。かなり傷ついたなあ。
ドヴォルザークの「スラブ舞曲集」のあとのほうのやつの、ピアノ連弾とオケのスコアの両方持っていて、その最後の曲を5パートで作って練習場に持っていっていたのに、ずっと忘れていた。のを思い出した。