病んだ魂17

「病んだ魂」などと書いているが、「精神的に機能低下(?)している状況」などと考えてみる。
「精神」というものがとらえがたい。感情にかかわることがおおきい。情報処理的な能力も低下するが、実質的、実用的な「機能」「性能」「能力」的なものがある程度変わらなかったとしても情動、意欲、そういうものがそこなわれる。情報処理は高速であっても、現実との対応関係が損なわれる。
生理的(?)にはやはり脳の機能低下もあるだろうが、社会的な問題も関わる。完全に個人的、個体的な問題だとも言い難い。生命個体というものは、その内と外がこれほど明確に区別されているものは他にないと考えられるが、精神というものはその生命体と外、人間にとっては他者との交差がたとえ具体的な行動、コミュニケーション活動がおこなわれていない状態であっても「常に外と交通を保っている」ような機能ではないかと思われなくもない。

「イマーゴ」という雑誌があって、「マインド・サイエンスの総合誌」らしい。なぜか過去2冊ほど買っていた。19年も前に「脳内物質のドラマ」などという特集の号を買っていて、ほとんど読んでいなかった。それをなぜかこのたび再発見。
その特集もさることながら、「精神分析療法の限界」という短文が興味深かった。狩野弘美さんという人の書いたその「限界」・・・「自我機能をいじくる」ことのつらさ・・・治療者にとっても・・・。
家族療法なるものが盛んになっているらしく、その行く先はしかし「家族の中の誰かしらが、おのれの生き方のあやまちを認めなければならない」ため、「本人自身の防衛をゆるめることなり、他者からの攻撃の標的となる可能性が強い」という。
狩野さんの方法は「分裂病者の生物学的な脆弱性を一方で認めながら」「対人関係を崩す“癖”に注目し、“癖の自己認知による不適応行動の消去”」を出発点としてみるということらしい。
「生物学的な脆弱性」を持っていて、「他者からの攻撃の標的となる」という視点は・・・読んだときにはちょっと目から鱗が落ちた感じもあった。こうして今読み直してみるとえらく難しい言葉のように感じ、意味が遠ざかっている気もするが。
あとは、例えば「分析」「解釈」的なものを求める「心的傾向」のようなものが、もしかしたら私にも、あるいはマスコミなどを通して多くの人々にも意識されないくらいに浸透していて、それはときにそのことそのものが誰彼をも苦しめる諸刃の剣となって、手を滑らせるひとびとやその周囲を傷つけるのではないのだろうかというようなイメージが浮かんだ。
それは私の自壊の原因の一つなのではないだろうか。

病の最も顕著な現れは、本人が傷ついていくと同時に、ある意味で周囲をも傷つける、「関係」の破壊、それは社会的な生物個体の生命力(時には経済力も左右される)として結局していくとか・・・。

しかし、このときに連想されることは、何も精神を病まなくても人間関係を破壊していくという状況はどこにでもあるという事実。そのような状況と・・・ある生命個体が病んでしまう場合と、様々な程度問題があるのだろうが、その違いとなると、「個体が」病むということで、あるいは「生物学的な脆弱性」がそもそも関係している・・・。他者への攻撃が常態であると・・・と、すれば、防衛が・・・。


私自身のことだが、言動に失敗、自分でも不快だと思われることを言い、自己嫌悪を感じているのだけれども、それに病的な昂進があまりないことにほっとするという、昨日からさきほどまでの自分の心の動きがあった。思い出すと私は自分でも不快なことを言っていたが、たまたまその場にいた誰かをひどく不快にはせず、人間関係もひどく傷つけはしなかった(と、思っているだけかもしれない)ことで、「癖を自己認知して不適応行動を修正」することにつなげることができるだろうか。

しかし、それにしても、その不快なこととは、ある人の作品を「くずだと思う」と言ってしまったことで、そこまでは考えていなかったのになぜかその場で言ってしまったし、その発言にある種の確信があったのだ。今も、それには一面の真実があるという感じが私の心の中から消えていない。そのことが暗い思いを呼ぶ。もちろんその場にその人はおらず、その場では、こう書いたようには「誰かの作品を「くず」だと敢えて言う」嫌な響きがしたわけではなかったのだが、しかし、そんなことを酔って口にするというのは、どういうことだろう。酔っていたからということは・・・。
その前か後か忘れたのだけれど、「絵がうまい人は最初から上手くて下手にならない」「うまくない人はうまくならない」という話題があったこと。それは私としては賛成をしたわけではなく、「考え方としてありえないとは言えない」くらいのつもりで聞いていたのだけれど・・・ある種の遺伝子が絵を描く能力に関係がある、というニュースをラジオで聞いたことがある・・・そしてその話題を美術教育に熱心だった方に、「そんな研究もあるらしいです」と言ったときのそのご年輩の、私も敬意を持っていた魅力的な方の表情の曇り方・・・何年も、かなり以前のことで、その後その方は重い病気が見つかり、亡くなられた・・・。ひとが、亡くなるものだということは、年をとるほど現実のように思えなくなっていくとは、どういうことだろう・・・。
さらには、それは美術家の新年会という酒席であった。私は一度は「美術を教え」ていて、そういえば、美術だけはほかの教科と違うという確信を持っていた。それは不確かさへの招待状を、その授業のなかでは受け取ることになるからだったかもしれないと、今思うのだ。
私自身が教員としての不適格だったという感触も変わらないが、その美術の不確かさへの信頼は変わらないかも知れない。すばらしい才能、技術があって、努力して、それを結実させたとしても、となりのひとはそれを嫌うかもしれない。うまいとかへたとかいうことはまた、別の話しだ。しかし、そういえば私は生徒たちの美術の作品への自分の採点の集計、利用法には自信がなかったが、その採点への基準感覚に関しては妙な自信を持っていて、しかしそんなものに自信を持っている自分に自信はなかった。そもそも私の設定した教材、それがいつかは採点されるということまでも含むその教材の構造、そこに否応なく私という人間のあり方が含まれてしまうということ、その恐ろしさに正面から立ち向かっていなかったことも含め・・・。
「絵がうまい人は最初から上手くて下手にならない」というのは、ある意味では真実で、そのくらいは押さえておいた方がいいかもしれない。しかし、本人が自分の描いたものについてどういう感じを持つかということがそれ以上に重要であり、何をするか、それをすることでどう世界と関わっていくかはもっと大事なことだ。
「自分の描いたものについてどういう感じを持つか」は、おおむね、卑下するか、むやみに認められたいと願うか、その視点も、「採点基準」も、行為への動機付けも、いずれもあまりに極端に違いすぎるものばかりが・・・。
そういう極端な構成員が社会をかたちづくっている事への問題を感じる、社会の抱える問題の根元を見るような気がするのだけれど、逆に、そんな感じ方に、私自身の深刻な問題へのヒントがあるのかもしれない。


混乱したスケッチだけれど・・・。