病んだ魂18

この前に書いたエントリ(「病んだ魂17」)が、つい3日前に自分が書いたようには思えない。
文章になっていないことに気付くのは、何も今回ばかりのことではない。
さらに、散漫にした方がまだ破綻が少ないだろうか。


私はある意味では社会的にあまりに弱く、明日も知れないという点で、最近話題になっている派遣を切られた人、特に切られそうな人とどう違うのか、と、思う。そのようにはっきりとした危機を経験した事がなく、体力もなく、偉そうで雇われにくいだろう私は、現在最も弱い種類の人間だろうと思う。
生物的、身体的に弱いのはいうまでもない。人間社会においては役に立つはずの(それほどすぐれていないにしても、それをもって糊口にあてるしかない)知的な能力は、なぜか商業社会で役に立つどころか、偉そうで不快な人間だということにつながるだけだ。
失敗した人間なのだろうなあ。明日も知れない。


美術について・・・先週の金曜・・・誰かの作品を「くずだ」と思ったときに重要だったのは、その誰かが、この近辺で指導的な役割のひとたちに近いということも関係があったのではないかという気がしてきた。そうでなければ、美術の教員だった私は生徒たちの描いたものの中に「くず」を見いだしていなければならなかっただろう。そんなことを、一瞬でも考えたことはない。
指導的な役割にちかい・・・単に積極的だということでもあり、そう積極的になれるのも恵まれた人脈があってということもあり、そういう恵まれた条件が積極的な作品発表の背後にあるのであって、作品は・・・しかしなんだろう、こういうことを言ってしまった事の苦い、嫌な感じは。確かにある種の努力はしているだろう、あるいは私以上に・・・。私は恵まれた条件を僻んでいるのだろうか。
いちおう、偽物を認めるわけにはいかない。しかし、自分自身の作品はどうか。作家としての姿勢みたいなものは、「くず」を作っている人に比べても、ろくなものではないのかも知れないなあと思う。
そうか?

「絵が上手い人はずっと上手い、下手な人はずっと下手」・・・遺伝子が関係あるのではないかということが本当かもしれないと感じてしまうくらい、教員として多くの生徒とその作品を見てきた実感でも、ある一面の真実をとらえているとは思う。
私は少しだけ上手い方だ。ただし、デッサン力が普通より少しいいといっても、鍛えられていない弱さもあり、また、本当に天分に優れていると比べると問題にならないくらい下手だろう。しかしそれでも、10人いたら運が悪くても2番目までには入るくらいの上手さ。ただし、魅力では4番目になってしまうこともあるかもしれない。
下手だと分類された人で私たちの酒席に加わる人は、今後ないのだろうなあ・・・。
変な話だが、私の「音楽の」仲間には絵が上手い人が多く、私より遙かに上手い人がひとり、私と同程度がふたり、下手かもしれないひとがひとり・・・つまりは「10人いる内の2人」以上のレベルが4人、「そのほかの8人」レベルが1人しかいないという、とんでもないことになっている。と、言えなくもない。
さらに・・・問題は才能だけではなく、その使い方だ。やはり、どう世界と関わっていくかだ。
才能があり、一時、時代と重なって優れた成果を発揮した人が、外れていくともに著しく魅力を失うということがある。先日浮世絵の番組を見ていてあきらかにそれが顕著だった人を見た。確かに、全時期を通して「上手い」、10人の内の2人になるということは考えられないのだが、しかし、良くない時期には全く魅力がない・・・。いい時期のものは目を見張るような、彼より著名な人を凌ぐほど活き活きとしているものを描いているのに・・・。
しかし、それも、どう世界と関わっていくかとは、ちょっと違った種の問題だ。


構想を無理にまとめるのではなく、敢えてよりスケッチらしくしてみたが・・・。