バッハ、メロディー、絵

最近アドルノの「音楽社会学序説」をパラパラと読んでいるのだけれど、音楽を聴取する仕方がひとによって違うその類型などが書かれていて、嫌な感じがするものの参考になる。能力的な問題を重要視するわけではないが聴取傾向とも関わってきて、面白くもある。
能力的なこととしてであるが、多声音楽などの各声部を追いながら聴くことが出来るというようなことがあるようであり、私はそこまでの分散処理的な頭脳は持っていないものの、時にはいくつかの声部を同時に追っていることもあるといった程度で、普通より少しだけ突っ込んだ聴き方をしている程度だと思う。
実際には音楽を聴くことすら普通の人にくらべて多いわけではなく、頭の中で音の流れを再現することの方が多いかも知れない。その場合にはめったに多声を再現することはなく、応答的に順次あらわれる旋律をそれぞれ違ったものとして認識するという程度だろうか・・・。
実際に音楽を聴く場合も通常はその多声、あるいは和声と旋律の組み合わさったものを、織物の完成品全体を眺めるように、より全体的に認識していることになるだろうか。それは一般的な楽しみ方として悪くはないものだとは思う。


そんなことを考えるのは「ポリフォニー」的な音楽というものがもうずっと長い間なにか重要な課題としてひっかかっているからでもあり、バッハのことがずっとひっかかってくるわけでもある。
実際に「良く聴く音楽」というものはバッハの後にハイドンなどが確立した古典的様式、いわゆる「ホモフォニー」(「モノフォニー」だったかな)という、低音に基礎を持つ和音の変化を背景としてメロディーのようなものが前景で主役を演じるというような、と書くとかなり乱暴な書き方であるだろうとは思うものの、そういう音楽がほとんどを占めるようであり、機能的和声というようなものの原理がいわゆるポピュラー音楽までもかなり浸透しているという、ある種の文化帝国主義的な状況が、2、300年でこの惑星の人類のほとんどの音楽というものを類型化してしまっているという漠然としたイメージがあって、何かそらおそろしい事だという感じがしている。以前は地球上のそれぞれの地域の音楽はそんなあり方をしていなかったことを考えると、市民や国家という、あるいは貨幣経済というもの、そういう文化や社会のあり方、それを支える「合理的」思考のひろまりと軌をひとつにしているかのようにも思えるものの、直接的な影響関係が無く、しかし、何か随伴したおおきな動きとして関連があったというような漠としたイメージは浮かび続けている。


実際には「古典的な様式」には「動機(モチーフ)」の発展というような構造が重要な要素としてあるのだろうし、それと上述の和声と旋律のイメージとはちょっとちがうのだろうが・・・。
いずれにしろ、そんなことを考えるときに、バッハというのは、なにか特異な、際立った存在としてひっかかりつづけることになる。バロックという時代、たとえばそれはのちのルソーが批判し、ラモーが反駁したというような(ことがあったと思うけれど、記憶違いかも知れないが)ことではとらえられない、多声的であるといっても何かバッハだけが他とはちがった特異な発展を成し遂げていたような印象を持っている。たとえばモーツァルトベートーヴェンが特にバッハから多大な影響を受けていたにしても、はっきり異質なものとしてしか作品を成立させなかったようなかたちでも、またバッハ以外の多声の作曲家の中においても、歴史の流れの中で特異なものとして。


あとはメロディーというものが気になるのであって、フォーレが、あるいは最近はヴィラ=ロボスのものにホモフォニーとかいうものと違った何かを感じるのではあるが、なんのことやら。


さらに、美術とは、絵とはいったいなんだという考えが浮かび上がってきて、たまたま上記で使ってしまった背景と前景というようなことではこのようなことと無縁ではないだろうとは思うものの、音楽のようにはロジカルなものではないようでもあり、あるいはより保守的につづいている形式を意識できないようでもあるなあ、と、思ったのだけれど、これもまた突飛なことかも知れない。


いずれにしろ、芸術とか音楽とか美術とか、なんだろう。私たちはそのなかにいて、それを外からとらえることが難しいものを、なにか客観的にとらえようと出来そうな気になったのだけれど、だからどうしたというと、何を考えているのか自分でもよく分からないものでもある。