形式

寺山修司が「この人に会いたい」というようなNHKの教育テレビの番組に出ていた。
「結末を作らない」というようなことを言っていて、それは面白い考えだ。明快だ。


起承転結というようなことは、ないのだろう。序破急ということは、急というものはわからないが、起きるとか、序ということも、結末と同様ないのではないかという気もする。いつのまにか始まっているとすら言わず、始まったということもないのだろう。破とか、転ということはあるかもしれない。そういう創作というものも、いくらでもあるのだろう。


ただ、実際には多くの場合、起こしたということを、なんらかのかたちで断らないといけないようだ。あたかもそうしていないようにさりげなくやるといいのかもしれないが、そうはなかなかいかない。そしてまた実際は結末というものも大上段にやったほうがすっきりするわけで、ベートーヴェンブラームス交響曲のようにしつこく終わりを確認させられるということになる。
ポピュラー音楽のフェードアウトというものの多くは気持ちの悪いものだけれど、ポピュラー音楽というものは実はあからさまに形式的であることが多いので、本当はカデンツで終わらなければ困るようでもあり、しかし、紛れ込んだ民族音楽のひびきがそれをじゃまするようであり、何か便利な形式としてフェードアウトというものが開発されたようでもある。あるいは、そういうことが技術的に可能になったのでやってしまうということかもしれないが。シュトラウスの「無窮動」という曲があったような気もするが・・・。


このように形式が大事だということは、はじまりがあり、終わりがあるということで、これは一個の生命体の誕生から死亡までがモデルになっていると考えざるを得ない。
時間経過を順序だてる要素を言語や音楽のようにはっきりさせる必要がない絵画や彫刻の場合、しかし、額縁や台座があって、ひとつの作品であるということの境界を際立たせるわけであり、つまりはこれもやはり一個の生命体、たとえば単細胞動物の細胞膜のような役割があるということになるだろう。


それらでは、生命体、当然のことに人間、それも「一人の」人間ということとの関連性が際立ってくるのではないかと思う。時間的にも空間的にも、境界が明確で、内と外がこれほどはっきりしている在り方をしている存在というものは「一個の」生命体以外になく、それ以外は、けっこう境目はなんとでもなる。さらに、そのなかで人間が特筆されるのは、表現するのが人間だから。
しかし、人間個人ではなく、集団になると境目はむしろあいまいになる。
というわけで、明確に形式を持つ表現形式というものは人間存在とのアナロジー、「一人の」人間の主体性ということとの関係があるのではないかと思った。


特に目新しい考えでもないだろう。別に目新しいことを書こうと思ったわけでもないが。