演奏会が終わった 2

演奏会というものが、かなり、わからなくなっていたかもしれない。ちょっとスケッチをしてみたい。


楽しい、と、いえば楽しい。
が、もっと楽しかった事もあり、ほとんど何一つ不満がない事もあった。演奏能力他、問題は多かったが、それは克服されていくようにしか思えなかった。それがこれからの楽しみであるかのように。
今、そういう気がしない。感受性が衰えたか。
ずっと、こんなものではない、もっと楽しくできるはずだと思っていた。出来る限りの事をやったと思っていたこともあった。そのことを演奏会前に思い出せれば良かったかもしれない。ちがうか。いずれにしろ、そういうことだった。
2年前の前回と今回は同じ団体の、続いている演奏会なのだが、結びつけて考えられなかった。
今回、べったりとパート譜にしがみついて、かろうじてステージに居続ける事が精一杯だったか。過去とも切れ、未来も思い浮かばない。
最近はうかつにも過去や未来の話しをしてしまう事があった。浮ついた言葉を吐いてしまった。もう3年前からろくな言葉を吐いた事がなかったような気がする。


と、いうのは、まあ、いいとして、以前考えていた事を思い出さなくては。


演奏会で何をする?


指揮者を中心に曲を選ぶ。団体によっては役員中心の合議ということもあるのかもしれない。
なにかしら、集団無意識のようなものと、団体の個性で決まる、ということを考えたが、それでは団体構成員を中心に考えすぎか。
観客の想定。しかし過剰な観客への意識は力を失う事につながる。やはり、演奏者が中心だ。
観客と同じ世界で生きているのだから、ということもある。
この世界にある、マンドリンオーケストラで演奏できるレパートリーから選ばねばならない。あるいは、作曲と言う事もあっていいのだが、委嘱という形になるほうが多いかな。
団体が持つ集団としての最大公約数のようなものを核、求心力にして、そこから世界へ拡がるベクトルのエネルギーが、うまくのせられるような、ツールとしての曲? ツールじゃあないか。パイプ?
あとは、時間的なもの、過去からエネルギーを引き寄せ、未来へとつなぐ、流れの中に架ける橋のような、音楽を選ぶ。
文化、教育・・・世界。大げさか。


ふと思う。指揮者って何だ。


指揮者はそんなに大事ではない? それは団体による。が、指揮者が大きな役割を果たす方が合理的だ。
判断すべき事は多い。結局音を出すのは楽器を弾く人で、しかし同じ曲を分担して部分に関わる。細部に関わる。細部と全体の、矛盾を取り除くことを、ひとりひとりが結局は行うのだが、全体は見えない。それをつなぐ役目。
たとえば、構成員が勝手に考えると互いに矛盾してしまいそうな事は、予め決定しておく。あるいは、棒を振っていく瞬間瞬間に、解決する。
自己表現をするのではない。何か透明な心の入れ物になる曲を選び、そこに色々運び込み、そこからいろいろと運び出す。
「こんどは温かいあれを入れようよ」「素早いこれがいいよ」コミュニケーションの豊かさ、速さを身上とするべきだろう(ゆっくりとした曲でも)。
指揮者がばたばたして、奏者がわいわいやる。楽しいじゃないか。


今度はそうしよう。


テレビで井上陽水さんの番組をやっていて、忌野清志郎さんも出ていて、「イエーって言えー」と、言っている。