彫刻制作とか、マンドリン演奏とか

とにかく続けていることと言えば彫刻の制作とか、マンドリン演奏に関わることで、デザイン・DTPの仕事をもう数ヶ月やっておらずやめようかとすら思うので、とりあえずはこのふたつは下手をすると仕事より大切なのか、ということになるが、そうか?


かなりデタラメにやってきたという反省がある。今まであまりそう思わなかったことが不思議だ。いや、思わないでもなかったが。
「自分の感受性くらい」という茨木のりこさんの詩があり、読むと厳しいというよりは、むしろ忘れていた普通のことのような感じがして、ほっとする。


最近、太宰治が生誕100年なのか、リバイバルしてきていて、それでも興味はわかない。
関係があるようなないようなことだが、笙野頼子さんの「なにもしてない」という本を、買ったはずで、しかし、見つからない。が、なぜか捨てないで取ってあった21年も前の「海燕」に、とりあえず笙野頼子さんの短編を見つけて、ちょっと読んでいる。妄想と社会から逸脱している話しのようなのだが、途中までのところ読んで、すっとしている。
こんなふうに、「人間失格」とか、「斜陽」を読んですっきりする人がいるのかも知れないと思ったが、やはり太宰治は読む気にならない。
「なにもしてない」は、出てきたら是非読みたい。


以前から、「ものぐさ太郎」の話しが好きで、花田清輝が何か書いていて、私の持っているものにもそれはあるのだけれど、昔読んだ記憶とは何か違った。
「なまけものになりたい」というのは水木しげる氏の本だ。しかし、水木さんは結局そういう意に反して馬車馬のように働くしかなかったと書いている。うまくいかないものだ。
深沢七郎さんの「言わなければ良かったのに日記」というのも最近再読した。正宗白鳥という人がいたらしくて、深沢さんの小説の師匠のようなひとで、その人のことを書いているのがせつに迫る。しかし、せつに迫るという言葉はないな。
内田百間(間のなかの日はただしくは月)が芥川龍之介夏目漱石の事を書いた文章があるが、そのことをときどき思い出す。
「言わなければ良かったのに日記」のなかには、仲の良い夫婦が好きだということが書かれていて、私も、人間でどういうひとが好きかというと、やっぱりそういうことで、実際には仲の良さそうな夫婦というものも鼻につくということは往々にしてあるだろうけれど、今のところは全般的に、たいていの独身の人より仲が悪くなければ結婚している人の方が好きだ。そうして、自分は嫌いだ。仲の悪いまま続けている夫婦というものはたぶん一番悪いが、そういう知り合いはあまりいない。


自分のやっている音楽というものは何だろう。
ハチャトゥリアンや、フォーレをピアノで聴いて、ふと、思う。
マンドリンでやっている音楽にはあまり意味がないというようなこと、そんなことを一生懸命主張しているひとがいて、一理はあるかもしれないが、結局はそのような主張は、意味がない。
たとえば誰かが子守歌をうたう、そんなことは、昔にくらべると何分の一かに減ってしまった。そのなかに上手い人もいるだろうし、そうではないこともある。音楽の力とはちがうということを言うかも知れないが、その上手いのではないほうに心を打たれることはあるだろう。
と、いう話しを出すことも、ちょっと話が飛びすぎか。
労働歌ということがかつてあって、「よいとまけの歌」という歌ではなくて、その歌のなかに出てくるよいとまけの歌とか、聴いたことがないというのは、どういうことだろう。
私は母に子守歌を歌ってもらったことがあったことを、思い出した。日本のものだけではなく、モーツァルトブラームスまで出てきていたかも知れないが。あんなことが、今の子どもたちにあるのかな。
子守歌の歌詞。「起きて泣く子のねんころろ、面憎さ」


彫刻、小学生の頃の私は絵が思ったように書けず、絵より図工の方が好きだ、と、思っていた。違った、工作の方が。粘土で手を作るというものがあって、絵よりは上手くできた、と思っていたが、一年後に見たらそうでもない。その一年後に作った手はちょっとは良かったと思う。
あとは、建築とか、大工とか、工場とか、電機とか、デザインとか、が、好きだったかも知れない。


眠くなってきた。