また演奏会に出る事に 2

ひょんなことから賛助(?)で出演する事になった演奏会が終わった。
自分の団体の演奏会が終わって「この勢いで行けば」と、思っていた心の中の勢いが急速に褪めてしまっていた。と、いっても参加した演奏会の企画や練習状況のせいではなく、自分をわかっていなかっただけだが・・・申し訳がない気がした。ひと月くらい前に、管楽器や打楽器の賛助全て参加した大きな練習会があり、その時がとにかく面白く、そこで私の中で頂点が来てしまったかも知れない。自分たちの演奏会でないと、なにか違う。参加費分のもとをとったな、と、思ってあとがおまけみたいになってしまった。まずいのでその後の練習は1回しか休まなかったのだが・・・。
キタラの大ホールだったけれど、緊張感なし。どういうことだろう。そういう自分に対する警戒がありはしたが・・・とはいえいくつかの詰めが甘く、もっと練習するつもりだったのに忘れてあまりやらず、ひと月前にやろうとしていたスコア(持っている曲かが何曲かあった)のチェックを食事の時間にやったり(役には立ったけれど・・・)、弦を換えた方がいいかなと思ったが換えずに本番で2本も切れてしまった。ここ数年の経験からすると切れるはずがなかったのだけれど・・・すでに練習で1本切れていたので、あやしいから使用弦の確認をしていて、それが生きたものの、また、その時点では弦を換えてはいけない時期になっていたものの・・・。


コンサートの企画としては、すばらしいものだったと思う。


武井守成という作曲家の曲、しかもユニークな編成、オーケストレーションのもの。この作曲家は、マンドリン音楽史の重要な音楽家なのだけれど、日本の洋楽史の画期をつくったひとりとも言えるのではないかと思う。
「夏の組曲」の音の響き、不協和音を用いた現実音の模倣、通常の音階(という書き方は他に適当なものが思いつかず困っているものなのだが)によらない独特の旋律、大胆で明晰な構成、独特の時間感覚・・・とりあえず音楽を芸術だとして、自然との関わり方が、今まで聴いてきた音楽と違う。こんな比較をするとなにを大げさな、ということになりそうだけれど、西洋(文化)との相克、というようなことが思い浮かぶ。それにもっとも自覚的で、かつ影響力も大きかった人としては武満徹がいたのだが、彼よりも先に、もうすこし違った東西の融和を、通常の洋楽の作曲家よりかなり深く成し遂げていたひとがいたのだ。ほかにももっと多くの作曲家の人がこうったことに取り組んで成果を上げていた事を私が知らないだけなのかも知れないが、しかし、このような音響がこんなかたちで生み出されていた事に驚く音楽愛好家も多いのではないかと思う。花火の音にドビュッシーの響きが聞こえたような気もするが、しかし、ガムランドビュッシーが聴いていたらしい事も思い出す。
もう一曲の、「死せる若人に」という曲も、薄いオーケストレーションの、どこかで聴いたようなメロディーのよせあつめと評されるかも知れないが、しかし、丁寧に音楽をつくっていくと、そこに深い心の動きが浮かび上がる。この、自由な感じの構成は、どういうことなのだろう。イタリアのマンドリン曲の構成を、デタラメな感じだと嫌う気持ちもあるのだけれど、それともかかわるのか、しかし、そうであったとしても、武井作品に矛盾を感じるわけではなく、より受け容れやすいタイプの構成の曲の方が安易だと考えるべきなのかも知れないとも、ちょっと思った。ただし、イタリア曲の多くは、やはり安易だと思っています。ちょっとわかりにくい書き方だ・・・楽式についてちゃんとした知識がないので・・・。
ふと、思い出すのは、たしか「芸術はアマチュアのものだ」というようなサティの言葉・・・。


コンラート・ヴェルキという作曲家は、あまり好きではない。が、そういう好まないひとの作品のほうに、意外に面白さを発見できることがある。ドイツの作曲家であり、20世紀を生きた人。有名な序曲などは、ベートーヴェンの流れをくむ序曲的な(序曲だからあたりまえなのかもしれないけれど・・・)、動機を繰り返して大きな曲を形作ってゆき、大団円で終わるタイプの曲。マンドリン合奏というと、序曲的なものと組曲的なもの、性格的な中小品、という感じに分かれるような、そうではないような気がするけれど(まあ、デタラメな分類だろうけれど)、私は組曲タイプのものが好きで、序曲的なものは好まない。ヴェルキの序曲などは、その中でもあまり好きではないし、短調の序曲というのも・・・。
そのように全体的には好みではないはずなのだけれど、部分的に心を惹かれるところがあった。ゆっくりとした部分のオーボエの旋律は心にのこる。その前のホルンの旋律、ブラームスを思い出すけれど、交響曲第1番の・・・そんなに似てはいないかも知れないが・・・。それらのあとのおどけたような部分は、いったいどうしたのだろう、とは思うもののやはり妙に心を惹かれる。
全体の大げさな、大上段な感じ(?)は基本的に好まないものだけれど、それらの細部の親しみやすさが、何か引っかかり、心に残る。この音楽は、なんのためのものなのか。
言うまでもなく、ヴェルキという作曲家が西洋音楽史などで重要視される事はないだろう。ドイツという国の現代音楽史を語るときに、どうなのだろう。アマチュア音楽への貢献・・・そういうレベルのものは、本当に取るに足りないものなのだろうか。
ほかに、自分が好まない曲というものが、単に自分の演奏能力や理解力が低いためではないかという事も感じた。オーボエの方をはじめ、管や打楽器の方々の表現力、私などが一生頑張ってもとても追いつくものではない。そんなことをことさらに気にするのもどうかとは思うけれど・・・。


ボッケリーニという作曲家は良く知らなかった。この人は音楽史に残る作曲家で、ハイドンモーツァルトと同時期の人らしいが、この二人のようには有名ではない。しかしイタリアの古典的な作曲家では、この人が最も良く知られているのかも知れない。
自由な感じの曲。透明な響き。長調短調の音階、和音に沿っているわかりやすさは私が勝手に古典的なものと考えるときの特徴。しかし、ハイドンモーツァルトに、特にモーツァルトに感じる性急さ、息苦しさを感じない。どうしてだろう。心が安らぐ感じが新鮮だ。
この団体の第2回目の演奏会の曲目リストに、同じ作曲家の5重奏曲の名前を見つける事が出来る。71年前だ。


ほかにも、有名な曲、特筆すべき大曲もあった。「交響的前奏曲」「失われた都」は、かなりの人気曲、が、長くなってしまったし・・・。
いずれにしろ、大切に守るべき文化を、正当に営んでいるのだと思う。脈々と続く、大きな川のようにあり続けてほしいと思う。
困難も感じた・・・私などが入っていけるレベルじゃまだまだダメじゃないかとも思ったけれど・・・。


今調べていたらヴェルキの序曲は5年前、武井の「夏の組曲」は10年前にもやっていて、私はどちらもたぶん聴いているということがわかった。同じ曲だったとは・・・ぼんやりとした印象はあるけれど、ほとんど覚えていない。演奏会の開演に遅刻したとか、そんな印象の方が強いなあ。聴くのと演奏するのも違うし、私の耳も変わっているかも知れない。


結局は、賛助というようなかたちで行って、迷惑をかけたかも知れない。録音を注意して聴くと、私が弦を切った音を見つけられるかもしれないし、そのあと演奏を邪魔したかもしれない。申し訳ないと思います。
また、私が参加するまでに若干ごたごたした事があり、しかしそれがなければ参加することはなかったのでもあり、参加した事は楽しく、またとない機会であったと思います。
企画、運営に尽力され、また演奏の中心となられた方々と、長年こういう営みを維持し続けた方々の努力に敬意を表し、今回お邪魔させていただいた事に感謝したいと、こっそり思っています。