美術の未来 1

グループ展1日目、会場で過ごし、帰ってきて今ぼんやりとしながら、なぜ美術という「くくり」が自明のものだと私が思っているのか、わからなくなる感じがしている。
失職して、職業に関して意識をはっきりさせなければならないためもあるのか。
中央の公募展(無名のものではない)にいつも出品している方・・・もしかしたら会員か会友かの方が私たちのグループ展に来てくれた。その方の、集中力の現れた、つぎ込まれたアイデア・技法の豊かさ、時間の蓄積も感じられる・・・作品を先日あった地元の個展で見せていただいたばかりであり、片手間でつくった私の作品の感想をきくわけにはいかないなという感覚、しかし、その違いは、何だろう。


日本で美術を規定する、してしまうのは、実は学校だろう。小学校で「図工」、中学校以降では「美術」と呼ばれる教科でやるような事。教科? ただ教科というとふつうのお勉強のことで、体育とか技術家庭、音楽と美術は実技教科。実技? まあ、そんなもののつづきで、なんか怪しげなものが美術。
そのなかでも、スポーツは言うに及ばず、さらにそれがカラオケであっても歌を歌うのが好きな人は多いのにくらべ、絵を描いたりする事はなにか縁もない事になっている。技術家庭は役に立つのに。何だ美術って。いちばんわけがわからねえ。なくていいんじゃない? なんて、センセイ方も心の中では思っている。そう思わないのはなんとなく美術が好きな人だけ。そういう悪意に最もさらされる教科。脆弱にされている教科としての存在根拠。
実は、絵を描けるという事は、ほかのことにもいろいろと役に立つ、とは、思う人は、ほとんどいないだろうなあ。私はそう思うのだが。
美術というくくりだと何か特別な人にしか関係がない、アートとか芸術とかピカソの仲間の・・・今はそのイメージすら通じなくなってきて・・・「やらされる」からかえって存在を疑問視される事が多くなる・・・体育だって嫌なひとは多いのだけれど、体育を推進する人はそんな事を思う人が間違っていると疑わない人の割合が多く、かえってそれが不条理ゆえに受け容れる人が多く、そして実は社会の不条理も似たようなものなのでじつはその不条理こそが役に立つ現実。
美術という教科でやるような事、絵を描いたり、粘土をやったりする事。あと、工作のたぐい。工作? 創造性を育てるという事? おこがましい? それとも、実はひとにとって必要だけれど摂取が不足している栄養素のようなものなのか? 私は心のどこかでそのように感じていて、今まできたのだけれど、何か障害があり、しかもその障害が意外なものであるような気がしてきている。
すくなくとも教科の枠組というものが安易で、その枠組みは何ら検討すらされていないに等しいのではないかという気がしたのだけれど、それは何故だろう。私はそれなりに、最先端ではないにしろ美術の動向を追ってきた。現場の多くの美術の先生たちよりもそうしてきたつもりだ。「美術の動向」という言葉の使い方がすでに違和感を感じさせるなあ、とにかくそのようなこととすら断絶しているであろう現場。そして、「美術の動向」があまり芳しい成果を見せていないにしても、もしかしたら美術教育の現場というものはそんなこと以上にさらになんとも芳しくない状況にありはしないか、そして、美術周辺、応用美術、エンターティンメントとの近接分野、それらと「美術の動向」との関係、さらに教育との関係、それらのことに関して、どこでどのように検討されているのかというような事、どうにかして検討しうるのか、そしてそれはどんなひとたちによってなのか?


なんて、そういえばさっき俗称「アニメの殿堂」、前首相と関係があるというような雰囲気を漂わせ今では現首相に無駄な公共事業の典型として半ば嘲笑されるように話題にされてしまう、何か計画されていたらしい公的施設のことなどをふと思いだし、もう手の着けようのない事態なのか、日本の文化というもの、いっそ美術という教科はなくしてしまったほうがいいのかなどという言葉が頭をよぎりさえしたものの、この話題にする仕方というものも、かなり変なものだろうという気もしている。