美術の未来 2

美術や、たとえば音楽や文学でもそうなのだけれど、技術というと表現の本質と関わらないなにか取るに足らないことのようにイメージしてしまうかもしれない。しかし例えば絵を描く人が、ひとたび技術的なことに話題が及ぶと熱中して話し続けるというように、ある種作家、作品にとって技術こそが核心にあるのではないかという事も考えられる。
私は芸術の歴史をでたらめにところどころかじっただけなのだが・・・そもそも表現の本質などということばを使ってしまうあたりですでに芸術の表現主義というかロマン主義の芸術に対するイメージを前提にしてしまっているのだけれど、実際におのおのの作者が彼の時間と身体(脳みそも含む)をつかって何事か、何者かを世界に出現させることそのもの、今や別に驚くことはないにしても、その出現そのものが芸術とかいうことの本質であって、たとえば何か伝えたいこと、内容というようなことがあるようで、それはあってもいいのだけれども、その内容を容れる容れ物のようなことが技術で、それによって伝わることが本質だというとらえかたはなんというか考えすぎというか、抽象的になりすぎている思考であって、みんながそんなふうに理屈っぽくなっているのが現代であって、ロマン主義なのではないか、と思う。


現代、というと20世紀に多様な表現が現れたことを、美術やいわゆる芸術の現代的表現だとイメージだろう。それは実際に起こっていた事実ではあるものの、そのようなイメージが作られるような表現が生まれたのはむしろロマン主義的な芸術についてのイメージが強固であるからこそその画一的な思考回路から脱けだそうとしたしたものであろうし、そうした試みの果てにもなかなか抜け出せないようなものだったものかもしれない。
また、作家の意識と、作品自体が世界の中でどういう意味を持ってしまうか、ということがより乖離してしまっているような状況があるのではないかと思う。そしてまた、世界の中で作品たちの居場所はなくなってきているかもしれない。そういえば、世界の方は、いまはどうなっているのか。おおむねでも・・・。


いまだにロマン主義に基づいて芸術を志し、あるいはそのことへの懐疑とともに・・・。
実際には技術の追求に明け暮れることにはなるのだけれど、技術にも様々な次元があり、その次元、美術であれば造形レベル、実際に手をうまく動かすようなレベル、鑑賞者の立場を意識する技術・・・そんなことを統合してなにをするかを方向付ける、技術・・・?
その統合レベルの技術が芸術というものかもしれないとふと思ったが、しかし今「なにをするか」と書いてしまったような不用意さ・・・。これがこれとして取り出しうるような内容を指してしまうことになってしまうと表現主義になるのではないかと思ったが、つまりは精神と物質が分離しうるようなイメージがロマン主義ではないかと・・・。しかし、いったい私はどうしてそう思ったのだろう。


実際には現代、20世紀にはそのような表現主義(と私が思っているのは安直なイメージ)と一線を画する行き方を、作者たちは模索し続けたのだけれど、鑑賞者たちのいつも言うことは「これは何を表しているのですか」ということになりつづけている。しかし、そんなことを言い始めたのはいつからなのだろう。そんなこと、少し前には誰も言わなかったのではないか。彫刻や絵画や詩や小説が「何かを表す」ということ、それはつい最近、もしかしたら日本の学校で教えるようになっただけのことではないかと、ふと思ったのだが、すでに私は話を世界に広げていて、何という大法螺ふき、井戸の中から見える風景から世界を推し量っているというのは間違いないものの・・・。
しかし、そんな、作品が何かを表していなければならないようなことを言う人たちというのは作者たちに好意的だと思っている人たちであったりもするのであり、そんなひとたちとつきあってこなければならないということを、私自身がどうやり過ごしてきたのか、是々非々で対応してきたのか。しかしよく思い出せない。


私はロマン主義ではなく、学校的なものの見方というもののことを考えていただろうか。私もそこから出ることが困難なようだ。