私は誰だ 9

昨日、NHKクローズアップ現代「“言語力”が危ない〜衰える話す書く力〜」という番組を見た。日本人の言語能力が落ちているというような話だ。
私もそう思うのだが、なにより自分がそうだろうからなのだ。昨日自分が書いた文章を今ちょっと読み直したけれど、変だ。これは読んでもよくわからないだろうなあと思う。間にとんでもない省略がある。何か共通意識を前提として書いてしまっているのだけれど、そんな前提を共有できるひとなどこの世にいないようなことだったりする。会話だとそんなことを話した時点で異論が出て、ああだこうだの後に結局意味が通じることになるのかもしれないが、文章ではそうはならない。また文として破綻している部分も多く、読むと不快だろうなあと思う。ごめんなさい。


以下、クローズアップ現代のホームページから抜粋

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言語力とは論理的にモノを考え、表現する力を指し・・・中略・・・進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」などの事態が相次ぎ教師たちは危機感を強めている。また、言葉の引き出しが極端に少なく、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている

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以上引用


思えば昔から作文が苦手だった・・・。
それにしても、上記引用の「成績は悪くないのに」以降は私にぴったりだ。語彙は多いけれどその選択に難があり概念は幼稚なのだろうなあ。
引用部分の後半は書き言葉ではなく話し言葉・・・というか思考レベルでの言語能力について書いているのかもしれないが、「キレる」というような言葉を使いはしないものの、私も実態にふさわしくない言葉で思考しているような気がする。


文章を書くということは、どういうことなのか。
あらかじめ構想を立ててそれに従って、部分は書きながら仕上げていく、ようなこと。
あらかじめ問題を立ててそれを書きながら考え解決していく、ようなこと。
極端な類型としてふたつ書いてみたが、このふたつを極としていいのかもわからないが・・・。
また、これが「文章を書くとき」だけの思考の流れの類型かどうかはわからない。何をするにしても何かこのような取り組み方の違いというものがあるような気がする。ただし、文章の場合はそのような思考の流れが現れてしまう。逐次的に現れてしまう。いや、逐次的に現れるべきものだということか。
と、書いている意味が、これを読んでいる人からは、いきなりわからなくなってしまったと思うのだけれど、つまりは思考の流れが文章には自然に現れるものかと思ったけれど、「自然には」現れない気がしてきたのであって、たとえば推敲するときに気をつけないと思考の表現を間違え、ひいては思考そのものを傷つけてしまうような気がしてきたのだった。
絵のことを思い出した。書き言葉同様、絵画にも上に書いた文章についての「極端な類型」みたいな思考と作業の類型があるような気がしてきた。文章を推敲するのと、鉛筆で描いているデッサンを消しゴムで消して直すというようなことは似ている気がする。絵の構図、ただし全体的な大きな構図のことだけではなく、その全体と部分の関係、それをどういう順序で探っていくか、ということと、文章の構想の仕方に似ているところと違うところが・・・。
文章の場合は最初から順序良く読むしかないので、その流れを、読者にわかるようにしなければ書いているほうも何を書いているのかわからなくなる。のかな、と、思った。絵の場合は思考の部分が断片的に画面に現れているところから背後の思考を類推しやすいのか、文章の場合はそうはいかず、現れている部分が全て、か? ちがうのか。何か誤解しているか。
と、書いている私の文章は上の類型にあてはまらない気がしてきたのだけれど、つまりはあらかじめたてるのは問題ですらなく、何を書いていくのかも書いているうちに変わっていくようなことをしているのか、とか・・・。


コミュニケーションの問題か。哲学的に精度を上げて考えないと、問題をとらえることもできないのか。やはり言葉の問題か。
いずれにしても、何が問題なのかもとらえきれなくなってしまった。


と、いう謎の思考とは別に、現実の日本の教育現場での国語科という時間が、あらまほしいこととは違う内容なのではないか、しかも極端に、と思った。
美術科ほどではないが、教材の扱い、それに対する切り口が担当者によってかなり違ったものになりうる教科かもしれないと思う。
言葉を学校で教えることなど可能か、という疑問と同時に、家庭や社会で言葉を鍛えることが難しい現状からすると学校しか残っていないのではないかという現状認識もうかぶ。あとは文化的な様々な活動だが・・・テレビを見るとかテレビゲームをやるとか・・・あとはスポーツ? あまり文化的ではない日常コミュニケーション場面に何かきっかけのようなものからコミュニケーションの密度が上がる仕組みをつくるなんてこと、かなり乱暴な思いつきか。しかし、文化って・・・書きながら自分でちょっと嫌になりながら、他に言葉が見つからなかったのだが・・・。


なぜ私は文章を書くのか、思考能力を鍛えようと思っていたのだけれど、惰性になってしまった気がする。
この記事でもそれなりに突き詰めようと思っているものの、粘り強く考える根気が足りないのか、短期記憶を展開する場所としてたとえば海馬の能力が低いのか、血糖値が下がっているのか。
日本橋ヨヲコの「G戦場ヘブンズドア」を読み返していたら、「(マンガは)人格だ」というような言葉が出てきて、人格って何だかはちょっとあいまいにさせてもらうとして、言葉も人格であり、思考の「中」と表現の「外」の両方にまたがって存在している、などと考えたのだけれど、そのとたんに、私は何かまちがった言葉の使い方をしているのだろうなあ、「キレる」かそうでないかという乱暴なとらえ方しかしない人たちのように、と思った。


言葉で考えるしかないということ・・・。