ジョルジュ・ルオー展

北海道立近代美術館で「ジョルジュ・ルオー展」を見てきた。良かった。
なにしろ、ちゃんとルオーだけ・・・。
いや、セザンヌ展は良かったと言えば良かったのだけれど、セザンヌ半分、ほかはセザンヌほどには良くなかった。安井の絵が少し面白かった以外はなんというか、展示も少し雑な感じがしたし、それでもセザンヌの本物はすばらしく、私が美術に関わってしまうきっかけのひとり、それがセザンヌだったことは間違いなかったという気にさせてくれた。あとふたり、クレーとマチスで、クレー展もこの美術館はやってくれた。それが私にとって北海道で見た美術展のベスト1。あとはマチス・・・。でもマチスで、面白い作品がまわってくるような展観が北海道に来るとは、あまり思えないか。悲惨だったピカソ展。ゴッホ展もなんかピンとこなかった。セザンヌ展に話は戻るが「父と呼ばれた画家」というコピーは、はなはだ鬱陶しかった。「近代絵画の父」と言われたのがもとになっているのだろうが、それを「父と呼ばれた」ってねえ。下品というか、勘違いというか、余計な事をするなというか。


ルオーにそれほどは期待していなかったのだけれど、嫌いでもなかった。まじめそうで敬遠する感じがあった。実際に見て、やはりまじめなようだったが、敬遠するなどとんでもない。ほんとうにいい奴、という感じ。いや、いい奴だなんて、失礼ですね。
ありきたりだけれど、なんというか、深い。宗教も私はどちらかというと敬遠する方なのだけれど、こういう信じ方なら・・・人間への、人生への洞察の深さ。表題にそって描かれる絵、それはあたりまえといえばそうなのだけれど、例えばモネの有名な「印象・日の出」の「印象」の部分はタイトルが簡単すぎると言われてしょうがなく付け足したものらしい。そんな表題では全然なく、たとえば詩句にそって描かれたその詩句とてらしあわせていっそう輝くような・・・内容?
実際には造形的にも優れている、という言い方もできはするけれど、造形と内容を切り離せはしない、か。・・・内容?
輝く絵の具の塊、とか、画面の中に光があること、とか、それもまた確かに、そうで、それがあってこそ私にとっては良かったものだったのだけれど、しかし、なあ。翻ってセザンヌマチス、クレーを思い起こすとそれらの内容って、なんだ・・・。
絵画、美術作品の・・・内容?


セザンヌの直接的な影響が見て取れ、水浴図もあった。が、物まねという感じがしない。かなり描き方が似ているものもあったのだけれど。むしろ、うれしくなるような感じ。単純化にはクレーやマチスを思わせる部分もあった。
セザンヌとルオーか・・・セザンヌはより造形的で、モチーフがオブジェのようにとらえられている要素が強い感じがしないでもない。対するルオーは、なんだろうな。イコンみたいな、ある種の宗教画。志向が似ているとは思えないが、実際はセザンヌ表現主義との対極にあったというわけでもないかもしれない。のちのちへの影響とは別として。
ということでもなく、ルオーがセザンヌに敬意を払ったことも、その影響の受け方も、いい形で制作のなかにあらわれているようで、そういう営みのつらなりを目撃できたことは幸せだ。人間として生きていて良かったと思うひとときだった。
ルオーにも風刺の鋭い面があり、「わたしたちはみな愚か」というような表題の、ちょっとどきっとするような一枚もあった。それでも、生きることを肯定しているとしか思えないことに、説得力がある。クレーも風刺画のようなものを描いていたことを思い出す・・・あまり関係ないか。


と、いう後に演奏会を聴きに行き、そこで音楽の力にも出会った。いい日だった。