おたくかな3 私は誰だ11

「オタク」の代表的なアイテム(?)としては私たちの世代の「アニメ」、その後は「ゲーム」になり、もはやなんでもありになったようだけれど、子どものものにおとなが熱中するというようなところがあるかもしれない。おとなというか青年くらいか。
と、書いたとたんに、「性的に未熟」という連想が浮かんだ。そういえばおたくといえば「○○コン」というはなしがあったし、最近は「○え〜」とか言うのであって、性的にというか恋愛的に、あるいはコミニュケーション的、精神的に未熟だということになりそうだけれど、未熟?
などと書いていると私は何かそういう仲間ではないと思っているかのようだけれど、多くのおたくのひと以上に未熟だろう。「○○コン」ではないし、「○え〜」とかいう言葉は使いたくないので使わないが、しかしあるいは「○え〜」と言っている人は自らをさらけ出しているわけで、その限りではコミュニケーションとして正しい。しかし私自身を弁護させてもらえば、そういう何か類型的な表現を好まないのだ。自分の言葉を使いたいよね。とは言っても、もちろん自分の言葉が出てこないので、コミニュケーション的にはゼロに近い。
そんなコミュニケーションのド壷にはまってこんなところで得体の知れない中途半端な表現にしかならなくても表に出さなくてはにっちもさっちもいかなくなってしまったというわけで、ここで「おたくかな」なんて書き始めたのはそんなこととも関係があるのだろう。
そうか、それにしても、自分の言葉、なんて。


子どものもの、ということに戻るのだけれど、だとすればおとなのものが何かというと、その子どものものほどに創造的でもなんでもなく、代表的なものはパチンコなんだけれど、いろいろ工夫はしているものの、その工夫がわかりやすすぎるほどわかりやすくなければならないし、感覚的でなければならないという、料理でいうと化学調味料だけで味付けされているというか・・・。「花火」とか「海」とか・・・それがアニメとかになってしまって、そのアニメの刺激的な部分だけリフレーンすることになるという、脳みそしびれ系ではないか、とか・・・基本的にはコンピューター制御・・・それに玉のまわりだけがアナログというか、バーチャルではなく物質だというか・・・奇妙なコンプレックスに・・・あとは金が動くというリアリズム(?)が共時的には観念として、未来に訪れる現実として・・・。なんのこっちゃ。
パチンコは現代社会のばかばかしさそのものか・・・。まわりのひとがみんなやっていて、ちょっとだけやってみたことがあるが、ちょっとでもやってよかった。
あの頃は著作権もののパチンコが出る前だったと思う。今は「エヴァンゲリオン」がメジャーなものらしいからなあ。もうパチンコはやろうと思わないけれど、「エヴァンゲリオン」は見てみようかなあ。


おとなのものといえば麻雀というものがあって、偶然と、意図的なものと、複雑な状況の把握など、かなり知的なようだ。花札は祖父母や父の兄弟はやっていたかな。そのあたりは以前ほどさかんではないのか・・・。江戸時代の博奕はサイコロをつかう、あれはなんていうのかわからないが、面白かったのだろうか。賭け事というものは、面白いらしいが、そんなことに手を出す器量は私にはないようだ。競馬とか競艇とか、競輪とか、マンガで読むとなかなか面白い。競艇のマンガは読んだことはないけれど・・・。
博奕でないと、囲碁、将棋なんてものが、今は以前ほど盛んではないけれど脈々と続いている。面白いのだろうなあ。私は将棋は小学生の頃少しやったことがあったが、弱かった。お勉強はできたのだが、頭はよくないと思う。


とはいえ、おとなのものとして必ずしも遊びを挙げることはないのであって、仕事や家事がテレビや友達との遊びの代わりに時間を占めてくる。と、ふと気づいたが、おとなのもの、恋愛だな。別に子どもが恋愛して悪いとは限らないが。
ふと気づくと恋愛というものは大変なものだ。仕事や家事は失敗する事はあまりないが、恋愛は失敗がほとんどかもしれない。どんどんうまくいっているなんていっても、それが結局は失敗だったということもあり得る。私は思えば失敗は苦手で、従って恋愛は苦手だが、避けていても突然やってくる。恋愛というものを避けるということが失敗の元で、それを失敗すると、人生の半分で失敗しているということになる。
敢えて強い意志で恋愛をしなければ失敗しないタイプの満足した人生を送れるかもしれないが、失敗もした方がいいのだろう。
中途半端に逃げを打つのが最も悪いのであり、積極的であろうと、受け身であろうと、心をしなやかな状態におくというか・・・別に恋愛ではなくても同じか・・・ある意味生きていることが恋愛に近いように生きた方がいいのかもしれない。


いや、おたくの話だ。
おたくの好きなアニメやゲームの中では、恋愛があるなあ。必ずと言っていいほど。
最初の方で性的というようなことを書いてしまったけれど、性的といってもいいが、そうでもない。恋愛的・・・つまりはコミュニケーション的に未熟なのは、おたくのひとたちだけではなく、私たちの多くがそうなのだろう。特に私はひどいのだけれど。
社交的な人は自分の内的な部分と表面で乖離が固定化する可能性が高いかもしれない。これもある種のコミニュケーションの不全だ。自覚しにくいのがつらい。逆に内気な人は自覚しすぎるのかな。
おたくのひとに内気なひとが多いとは限らないが、アニメやゲームの中で、実際の対人関係の緊張から解放されている状態で心の交流の可能性を体験することが全国あちこちの家庭でどんどん起こり、それが少しずつまとまった集団無意識のようになっておたくが生まれた、のだろう。おたく仲間ができる人は、私よりはその仲間に心を開くことができたのかもしれない。
実際にはちゃんと社会的にうまくやっているように見えるひとが乖離しながら生き続けているということがまれではないだろうし、ろくでもない硬直化した人間関係を続けているひとがいる。などという私も今失業中で優しい人たちとばかり接していて、何かそんなこととたまたま無縁になっているだけであり、利害関係が出てくるとそういうわけにはいかないかもしれない。基本的には労働契約関係は、ディスコミュニケーションの典型だ。心の中に不満を隠し、世の中こういうものだということに心の中を支配されてそれに従って行動している。
誰しも自分で考えているなんて思っているけれど、本当にそうかな?
自分で考えようとすることが間違っているかもしれない、生半可にそんなことをしようとするのが破滅の始まりかもしれないけれど。
ともかく、実際にそうであろうと、何かがおかしいと意識に及ばないまでも心の底によどんでいく。アニメやゲームの中で開放される部分がある。それは現実とは違うと思うけれど、心が動かされるのは事実だ。それを無視することはさらに自分を欺くことかもしれない。
どう折り合いをつけるか。やりようによっては現実の方を変えられるかもよ。


などと、書いては見たものの、ゲームは何年かぶりに「ゼルダの伝説」のDS版をちょっとやったけれど一回解いたマップをまた解かなければならないのに忘れてしまっていて、それっきり何ヶ月もDSを開いていない。「ゼルダ」には恋愛らしい恋愛は出てこないかもしれないが、体感、体験的な要素があって自然と近い感じがする。でも、おたくっぽくないか・・・。
アニメは、どんな作品があるのかなんとなくチェックはするが見るには至らない。「流星の双子」というものがあるというのはミクシィのバナーに出てきたので知ったのだけれど、動きがよさそうで、BONESらしくて、岡村天斎で、「WOLF'S RAIN」か、という「WOLF'S RAIN」も数話見ただけ、その後はときどき「ワンピース」見ちゃうことはあるかなあ。「クレヨンしんちゃん」とか・・・しかし「流星の双子」からWilipediaをたどったりして、GONZOが出てきたり「エウレカセブン」が出てきたりしたけれど、ちゃんと見たのは「∀ガンダム」と「カウボーイビバップ」が最後でその後ガンダムの新しいシリーズの最初少し見たりとか・・・「ファンタジックチルドレン」ちょっと見たかったかなあ。「サムライチャンプルー
って面白かったのかなあ、と、急にあれこれ書いたものの見てはいない。
エヴァンゲリオン」の映画版がいいらしくて、以前途中で挫折したテレビ版から見てやろうかと思っているが、吾妻ひでお氏が「エヴァンゲリオン」をきらいだと書いているので逆に見たいということもある。あの中に恋愛が出てくるようだけれど、なんかちょっと大変らしい・・・我慢して見てみようかという感じだ。
普通に見たいものはあるかなあ。「時をかける少女」がよかったらしいし、「サマーウォーズ」もいいらしい。が、今ひとつ努力する元気はわいてこない。「鉄腕バーディー」の2シリーズは見たいけれど・・・。「蟲師」もよかったらしい・・・。「スカイ・クロラ」も見てないなあ。「ポニョ」も。
でも本当に見たいのは「ダグラム」と「ザブングル」と「ボトムズ」と「ダンバイン」かなあ。というのは「ガンダム」シリーズのほとんどと「エルガイム」だけは10年くらい前に貸しビデオで見続けて、「∀ガンダム」と「カウボーイビバップ」まで来て「エヴァンゲリオン」をちょっと見てそれ以来アニメをあまり見なくなったのだ。
いやそんなことどうでもいいか。ゲームをしなくてもいいし、アニメなんか見なくても。


恋愛だかなんだかいかにもおたくにふさわしくない言葉遣いでうさんくさいことを書いてしまったが、アニメファンだった頃の私は作画がとにかく気になっていて、すごいことをする人がいるのにとにかくわくわくしていたのであった。背景と動画とは当時手で書かれていた。今もちょっと違うはずだけれどそれに近い。画面の中に空間と時間が拡がるのだ。当時からすごい人はいたし、雰囲気は違うけれど今もすごい人がいるようだ。
でもボーイ・ミーツ・ガールというのは現実でもアニメでもどこでも起こるのであって、そんな空気も画面の中に拡がったんであって、そんなことがないよりはあったほうがいいのだろうなあ、どこにだって。他人事だが。

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